日本で最初の水族館は、上野動物園内に設置された「観魚室(うおのぞき)」であろうといわれております。
下図の左上に「うをのぞき」と縦に施設名が書いてありますよね。
これが意外と早くて1882年(明治15年)ということですから、欧米の気風に追いつこうとしていた当時の日本政府の気概がわかりますね。
1885年(明治18年)には当時東京屈指の繁華街であった浅草に水族館がオープンしています。
その後、1899年(明治32年)に浅草4区に出来た浅草公園水族館が大変有名なのですが、それ以前に民間で初の水族館が出来ていたんですね。
当時の浅草公園水族館の様子を書いた錦絵ですが、やはり家族連れ、子供たちに大変人気があったものです。
この浅草公園水族館に先んずること2年、神戸の和田岬にわが国初の循環式水槽をそなえた水族館が出来ていました。
和田岬和楽園水族館、これがわが国の近代水族館の嚆矢といっていいでしょう。
現在の神戸須磨水族館、通称スマスイの前身です。
大変立派な建物なんですね、これが。
図面も残っています。
貴重な平面図もバッチリ残っています。
なぜこんなにキチンと残っているかというと、第二回水産博覧会という国の肝入りで作られたものだからなんです。
この水族館を設計したのは動物学者の飯島魁(いいじま いさお)です。
(文久元年6月17日(1861年7月24日) - 大正10年(1921年)3月14日)
元浜松藩士で動物学者、魚類学者。
海綿や鳥、寄生虫に関する研究も多く日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。
ドイツのライプティヒ大学に留学しており、森鴎外と下宿が隣同士であったという。
豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードもある。
設計といっても建築の方はですね、ちゃんとした設計者がついています。
農商務技官の榎本惣太郎。
榎本さんはですね、1910年の日英博覧会で日本庭園の建物関係も設計もされています。
「1910年の日英博覧会日本庭園の歴史と現状について」大出英子先生論文より
日英博覧会事務局は日本庭園を「我国園芸趣味の真粋を発揮せしむる」ものにしようと、当 時、日本庭園設計の大家とされた小沢圭次郎、本多錦吉郎、清水仁三郎、井沢半之助の4名そ れぞれに設計を依頼し、各々の案を出させた。事務局はこれらの案を審議した結果、平和園は 小沢圭次郎案を、浮島園は本多錦吉郎案を採用し、工事にあたっては井沢半之助を現地に派遣 し、現地の状況と原案を斟酌しながら築造することにした。 小沢は、イギリスでの設計の上で困難なこととして、 「1.石を使用し難きこと、2.土を十分に使用すること能わざること、3.高さ1丈以上 の樹木を輸出す可らざること」の3点を挙げ、水は十分使えるようであるから、水を主体にし て園を設計したと述べている。そして、その園の説明書によれば、平和園は山水造り(築山泉 水造)とし、山を築いて瀑布を落としてこれを流れの水源とするものとし、浮島園は平地造り (平庭造)として、吹出井筒を水源とし遣水と野筋の形を作るものとしたとされる2)。 なお、園内の構築物や工作物の設計は、事務局嘱託農商務技師の榎本惣太郎が行った。
話は神戸に戻りまして、この水族館があった和田岬という場所は赤灯台でも有名なことろです。
この灯台はですね、日本の灯台の父と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計されたものなんです。
そして、水族館の周辺全体が「和楽園」という海浜公園として計画されていました。
そういった意味では、葛西臨海水族園の元祖みたいなものでしょうか。
次に登場したのが、わが国において欧米諸国の水族館に見劣りしないように頑張った、
初めての本格的水族館と呼ばれるもの、
それが、「堺水族館」です。
これ、相当かっこよくないですか。
アプローチに気品がありますよね。
アートワークも凄くて、ガイドブックの表紙が、ミシャを思わせるアールヌーボーです。
もちろん、錦絵の方も頑張っていますよ。
魚類学者で水族館学を提唱なさっている東海大学名誉教授の鈴木克美先生によれば、この和田岬水族館を契機として、一気にわが国の水族館ブームがやってきたそうです。
鈴木克美先生の論文『わが国の黎明期水族館史再検討』(2001)より
ほんの10年ほどの間に主要都市に水族館が解説されています。
同時に、日本の近代化と軌を一にしていますよね。
この1911年の時点でも全国屈指の水族館県があるのがわかりますか?
日本に水族館が16館しかないのに、3か所も開設しているのが、三崎、横浜、江の島の神奈川県です。
神奈川!どんだけ水族館好きよ!ってことなんですが、続いて逗子にも出来ます、油壷にもできます。
逗子水族館
三崎水族館は東京大学の学術研究所でもあります。
煉瓦張りのですね、建築家の内田祥三の設計によるアールデコとモダニズムの過渡期の建築ですね。
これ、今でも現存しているんです。
が…、先日から解体工事をやっているみたいです。
先月まで存在しているのに…
この外壁の素材からして、大変貴重なもの。
こういう建物はもう建たないんですよ!なんで壊すかねえ。
とまあ、神奈川県内には水族館がたくさんある。
それはですね、やはり海に近いということがいえるでしょう。
海への意識が高いといってもいいですが…
戦後に開館された水族館で特異なものとして「三笠水族館」があります。
東郷平八郎元帥の元、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った日本帝国海軍の旗艦です。
わが国は大正12年にワシントン軍縮条約に調印したことで、艦齢の古い「三笠」を廃棄することを決定しましたが、日露戦争の勝利に貢献した「三笠」を、「日本の危機を救い、独立を守った誇りの象徴として永久に残すべき」の声が国内で高まり、記念艦としての保存が閣議決定されたものです。
現在でも横須賀の三笠公園で、その雄姿を見るだけでなく乗艦体験することができます。
この三笠なんですが、戦後の一時期、大変なピンチにみまわれていたんですね。
それは、昭和20年8月、太平洋戦争に敗れた我が国には、連合軍が進駐してきました。
そして、日本の独立が危ぶまれる危機を迎えていたんですね。
戦勝国は日本の占領政策を進め、特にソ連代表はこの記念館「三笠」を、すぐに解体するよう強く要求してきたのです。
日本側としては、太平洋戦争での敗戦と、「三笠」の保存とはまた別の話ですから、その要請を受け入れまいとしましたが…
ソ連の強硬な姿勢に困っていましたが、米国の仲裁で妥協案として「三笠」から、艦橋や大砲、煙突、マストなど戦艦を彷彿とさせる部位である上甲板構造物を全撤去することを条件として、「三笠」の保存が許されました。
その上甲板構造物を撤去した跡に設けられたのが水族館とダンスホールだったんです。
しかも、そのときに上部甲板上の構造物は業者によって売り払われてしまったのでした。
その後紆余曲折を経て、「三笠」は復元されて今に至るのですが
この三笠水族館は昭和34年に、「三笠」の復元工事決定まで存在していたそうです。
つまり、現在の「三笠」は、ただ単に古いモノが残っている…というわけではなく、やはり歴史的事実や先人の事蹟をつないでいこうという強い思いによって今に伝わっているのです。
三笠保存会の結成に際し、慶応義塾大学塾長の小泉信三氏は以下のように述べられています。
『自尊自重の精神のない国民が、他国の人々の侮りを受けるのは当然であり、自らを重んずる精神のないものは、弱小のものに対しては不遜となり、強大なものに対しては卑屈になることは避けがたいことであります。 他国の武力に屈するのやむなきに至った日本人は国民としての誇りを失い、心の支えを失って、退廃に陥りました。道徳的努力を無意味なものとして嘲る思想、ひたすら官能の満足を追い求める傾向、さらに、何者かに媚びる気持ちから、しきりに日本及び日本人を侮り嘲る風潮が生じています。
記念艦「三笠」が元の姿に復元され、自尊自重の精神を取り戻すことができることは、申しようもない喜びであります』
戦後、最初の水族館としての「三笠水族館」は数奇な運命に翻弄されたといえるでしょう。
さて、戦後の日本の水族館を変えた第一号の水族館も神奈川県にありました。
それは、江の島水族館です。
つづく