この葛西臨海水族園なんですが、
この周辺環境全体を整備しているということなんですね。
しかも、30年がかりだったんだということ…
では、30年前はどうだったのか?
さらにもっと前はどうだったのか?
知りたくないですか?
私はですね、教えてもらってきました。
昭和40年以前、トウキョウオリンピック前の葛西はこんな感じだったそうです。
漁村の風景ですよね。
牛を飼っている家もあったりして、江戸川区の南というのは、半農半漁の町だったそうです。
ここ葛西から5~6キロしか離れていない銀座という町は、昭和35年に既にこうでした。
この葛西の家の写真を見ると家の向こうに白い壁のようなものが見えますが、
これは海苔干し場ですね。
これが、なぜ消え失せてしまったのか?というと、地図を見れば明らかなんですが、
この遠浅の海と浜辺が、昭和40年代には完全になくなっているんです。
電車も通って、道路も通って、もはや葛西の街と海は完全に断絶されてしまいました。
実際に、この頃の東京湾はほぼほぼ、こういう状態であったのは前回見たとおりです。
この黒いろところは全部そうです。
漁業が消えて、渚が消えて、砂浜がなくなってしまったところを示しています。
そして、東京の海はヘドロだらけで、死んだ海と呼ばれていた頃に、このままじゃいかんのじゃないか?
という意見が出されたんです。
そこで、「東京都海上公園構想」なるものが出されました。
昭和45年、1970年のことです。
東京湾の汚染状況を視察した当時の東京都知事の発案でこの構想は始まりました。
美濃部亮吉さんですね。
この構想は、同年8月に全庁的な検討が行われ、12月策定、翌年1月に公表されました。
その内容はといいますと、
「東京都海上公園構想」
まえがき
東京の街は、都民が自らの街として愛着を持ち得る住みよく美しい街でなければならな い。
そのためには、澄んだ空気、深い緑、青い水面などの自然環境の保全と回復を図り、 都民が明日への活力を養えるようなうるおいといこいを与えるための施設が必要である。
しかし、現在都民は、深刻な公害や都市過密の中での生活を余儀なくされているが、 これら限界を超えた環境破壊の現況にあって、東京の東南部に位置し、区部のほぼ三分 の一の面積を有する葛西沖から羽田沖までの海域は、都民と自然とのふれ合いの場とし て利用し、保全する配慮がなければならない。
この構想はこのような認識と反省のもとに、従来計画されている近隣公園のほかに、 都民のための海上公園を体系的に整備しようとしてとりまとめたものである。
海上公園の基本的考え方
(1) 海の都民への開放は、葛西沖から羽田沖までの海面全域にわたる一体的な構想のもとにすすめる。
ア 葛西沖など残された海岸や水面は、都民が海に親しみ、明日への活力を養える よう計画的に保全する。
イ 埋立地には、都民が自然に親しみレジャーやスポーツを楽しむ場を積極的に確保する。
ウ 港のエリアを都民にとって魅力的で親しみ易いきれいな場として整備する。
(2) 海 - 海浜(港)- 陸上と続く一連のレクリエーションスペースの中で、青少年 や老人、婦人など都民のさまざまなレクリエーション活動が有意義に行われるよう施設は効率的、重層的に組み合わせ配置する。
(3) これらの具体化にあたっては、都民の参加を得てよりユニークなアイデアを投入す るとともに、公園施設の運営管理には、都民の知識、経験を積極的に活用する。
(原文から抜粋)
これら、当時の高度成長期を終えて次の日本がどういう方向に進むべきかという、様々な構想はですね、当時の日本建築界の日本の都市計画界のスーパーサブ、知る人ぞ知る天才プランナー浅田孝によって作られたものなんです。
浅田孝は丹下健三さんの右腕と言われているんですが、丹下さんには右腕はいっぱいいましたからね。
黒川紀章さんも磯崎新さんもそうだし、大谷幸男さんがそうでしょう。
浅田孝はですね、丹下さんのいわば軍師です。
曹操にいける荀彧、もしくは郭嘉。
劉備にとっての諸葛孔明。
秀吉にとっての竹中半兵衛、黒田官兵衛。
そんなポジションでしょうね。
評論家の川添登は浅田孝のことを、こう呼んでいます。
「建てない建築家、書かない評論家、教えない大学の教授」と。
浅田孝が関わった計画を並べるとちょっと凄いですよ。
川崎駅周辺地区再開発構想
能登半島地域総合開発計画
大阪万博
メタボリズムグループ
南極大陸昭和基地
高速道路・道路標識のサインシステム
みなとみらい21地区の開発
横浜ベイブリッジ構想
港北ニュータウン
横浜こどもの国
世界デザイン会議
香川県の五色台開発
坂出人工土地
沖縄海洋博プロデュース
総合研究開発機構(NIRA)設立
本四連絡橋(瀬戸大橋)
そして、美濃部亮吉東京都知事時代に提案した「広場と青空の東京構想」です。
ちなみに、この装丁デザインは、東京都の報告書なんですが…粟津潔です。
粟津潔さんとは、この頃、一世風靡したグラフィックデザイナーですが、単にデザイナーにとどまらず当時の若者の表現活動の指針になったような人ですね。
粟津潔さんに政策提言書のデザインを頼むとは、当時の都庁の役人連中もとってもイカしてますよね。
それに引き換え、今回の都庁の役人にざまといったら…
特に、都庁建設局の公園課の課長の野上のざまといったら…最低です。
つづく