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中央卸売市場制度って日本人の大発明なんだぜ⑫

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市場法のない時代の取引の仕組みについての解説の続きです。

 

商売というのは「安く仕入れて高く売る」のが基本といいました。

物の仕入れだけでなく、資源や労働力もそうです。

自然に採取・採掘できるならいかに労働力を安く抑えるか、ということになります。

なので、放っておくと、極限にまで安く仕入れるのが侵略と強奪、労働力については奴隷を使うということになる。

 

これは、歴史的にも世界共通のことのように思われますが、そうではありませんでしたよね。

中央卸売市場制度って日本人の大発明なんだぜ③

そのように極限にまで安く仕入れたり使役したりすることは、できません。

なぜなら、人間社会が壊れるから。

なので、知り合いとか、顔の見える相手、仲間意識がある範囲、当人がリアルに関係性を認識できる範囲が人間社会です。

 

逆にいえば、そのような倫理にもとる行為が起きるのは、当事者社会外からの調達をおこなっているということです。

社会の範囲認識が狭い、閉鎖した社会、ということです。

 

巨大都市が出現し人口集中が起こり極端な需要が発生しながら、市場法がなく、

それに則った中央卸売市場がないころの流通のシステムを図にしてみました。

 

この図において注目して欲しいのは、市場の中の構成が「問屋」と「仲買人」と書いてあるところです。

あれっ?確か・・今の築地市場って「卸(おろし)」、「仲卸(なかおろし)」じゃなかったっけ?と思われるでしょう。

そこがミソなのです。

現在でも混同して市場の内部の構成を「問屋」と「仲買人」と呼ぶ人もいますが、

市場法によって「問屋」「仲買人」という呼称は意図的に廃止されました。

意図的に、ということには意味があって、システムとルールの変更を意味しています。

つまり、食品流通の近代化、システムの刷新と共にうまれた人工的な新呼称が、「卸(おろし)」、「仲卸(なかおろし)」なのです。

なので、「卸(おろし)」、「仲卸(なかおろし)」という言葉そのものが、市場法と共に、日本近代化の象徴でもあるのです。

 

「問屋」、「仲買人」の時代の仕組みとはどういうものかといいますと、

 

まず、大都市の発生と共に人が集まってくるわけですから、人は毎日の食事を必要とします。

そして、大量の需要が見込めるところには、生産物を運び込みさえすれば、大量に売れます。

なので、この都市部の市場では仕入れ問屋が強いわけです。

 

「買ってやってる」です。いや、そうではなく「置かせてやってる」かな、

「持って来れるのなら置いてやってもいいが、売れるかどうかまでは知らんぞ」と、そういう認識。

 

神田の青果市場や日本橋魚河岸を例にとれば、江戸幕府御用達ということもあり、長い歴史的権威と財力をもって市場を完全に支配していました。これに対し、仲買というのは、長年問屋に勤め、問屋の旦那さんに丁稚奉公で忠勤を励んだうえで仲買となって者が多く、問屋と仲買というのは、ある種の主従関係という絆で結ばれていたのです。

 

 

さらに、小売商は商品を仕入れに市場に来ますが、問屋=仲買人からは「売ってやる」、「売らせてやる」という、現代からみれば主客転倒。

お客様は神様です、ではなく、問屋さまは神様です、といったような関係でした。

なので、市場で小売商は「売り子」とも呼ばれ、まともに名前で呼ばれるようではなかったそうです。

 

 

それだけでなく、市場取引も公開ではなく、すべて密室での相対取引。

価格決定権は、問屋が完全に握っており、取引価格は相手次第で変わります。

価格どころか、目の前に商品があっても問屋の気分次第で「お前にゃ売ってやらねえ」とか、「もう、売り切れてんだ」とか、

問屋の虫の居所が悪いと、追い払われるようなこともある。

 

かつての神田市場では明治初期まで「外道(げどう)」と呼ばれるような風習もありました。

「外道」とは、問屋が、納入する農家と小売商の双方から取引額の5分(5%)を取るという制度です。

いくらなんでも、なんにもしないで売買金額のさらに1割を取ることに腹を据えかねた有力な小売商(本郷:八百定、麹町:八百直等)が、問屋組合に「外道」廃止の申し入れをしたところ、問屋組合は小売商へ「市場出入り禁止、一斉不売」を申し渡し、最終的に小売商が詫び状を差し出すという結果をみています。

 

明治十五年頃には、小売商の販売力もついてきて、「外道」の風習も自然消滅していきましたが、それでも市場関係者の意識の中には「売ってやってる」「売らせてやってる」という雰囲気は残っていました。

まあ、現代でいえば一部のFCチェーンにおけるロイヤリティのもっと激しい版かもしれませんね。

 

つまり、市場内での問屋と仲買人と小売商の関係には、激しく非対称性があったのです。

 

日本橋魚河岸については全国に比肩する者なき繁栄を続けていたわけで、江戸幕府御用達ってだけでなく、権現様こと徳川家康公が直々のご沙汰により、開場したるにして、という権威と社会的地位がありました。

 

歌舞伎の演目や映画ドラマでも有名な「一心太助」をご存じでしょうか、

 

 

あの天秤棒一本で、盤台に魚を入れてお得意さんや路地裏を売り歩く魚屋さん、棒手振り(ぼてふり)と呼ばれました。

なぜ、「一心太助」の物語が面白かったかというと、長屋住まいの棒手振りの魚屋一心太助は、

義理人情に厚く気っ風もいいし、喧嘩も強いし、頼りになるってんで、ご新造さん達にも人気者なわけですが、

 

そもそも、太助は三代将軍家光様のご意見番ともいわれ初代徳川家康時代からの重臣大久保彦左衛門のところで奉公していました。

あるとき大久保家の腰元お仲が、彦左衛門にとっても命より大事な初代将軍様拝領という皿八枚のうち一枚を誤って割ってしまいました。

すわ、お手討ちか!とお仲が殺されそうになるのを知った一心太助。

彦左衛門の目の前で、残りの皿七枚をぶち割り、啖呵を切ります。

「皿一枚と人の命、釣り替えにされてたまるものか!皿のくせに人の命を取ろうたぁ、しゃら臭えやつだ!」とシャレも交えて

結果、彦左衛門もなかなかの御仁ですから、お仲および一心太助を許します。

一心太助はお仲を娶り、主人に詫び武家奉公をやめ、お仲の実家の魚屋で棒手振りとして働くようになります。

しかし、その後もことあるごとに彦左衛門から声かけられ、元部下として彦左衛門に意見したり、太助ならではの協力をすることとなる。

そんなお話です。

架空の人物とも実在の人とも諸説あります。

 

三木のり平さんの桃屋のCMにも出てきます。

 

https://youtu.be/zU28E4Gwl3Q

 

これが人気となったわけには、江戸庶民の代表としての棒手振りの魚屋さんと、幕閣に位置する大久保彦左衛門が実は通じ合って、江戸の街をよくしていく、という痛快さにあったわけですね。

 

現実には、魚河岸の中では問屋と仲買でさえ厳然たる上下関係があり、さらに問屋と小売商とでは、社会的にも経済的にも破格の違い、相互の関係にも意識にも画然たる敷居があったのが事実です。

 

日本橋魚河岸の大問屋の旦那衆が「殿様」なら、棒手振りと呼ばれる小売商は「水呑百姓」くらいに意識の違いがありました。

同等で口を利くなどまったく出来ないどころか、市場の運営について発言するなどもってのほかであり、逆に、問屋からは量目のゴマカシ、品物のスリカエ、を不正な取引が横行しても泣き寝入りする他ないというくらいにしがない立場だったのです。

 

これは、なんと江戸時代を超えて明治も超えて、大正時代に入っても続いていました。

つまり、市場法が制定されるまで、そういう状況と意識が続いていたのです。

 

つづく


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