明治時代に入ってからの都市部への人口流入によって増え続ける食料需要と、
生産力の補強としての付加価値創造、同時に流通の円滑化という課題は、
明治初期からずっと懸念事項として残っていましたが、
市場の公的確立を目指して、立法化案が出されたのは明治40年(1907年)にもなってからでした。
当時の憲政本党の川島龍造議員より「市場法案」が提出されていますが、それは前々年の畜産市場法案に続くものであり、
第23帝国議会において、「魚鳥、家畜、肉、青果の各市場を含む総合食品市場法案」として出されています。
そして、第一回市場法案委員会が開催される運びとなります。
そのときの川島議員の提案主旨の一部を抜粋しますと
「どういうわけで市場法が必要かと申しますれば、・・・
多数の市場が各所にあるけれども、市場の取締法も付いておりませぬ。
ほとんど旧慣(きゅうかん)、昞習(へいしゅう)で甚だ困ったことになって居ります。
たとえば、魚類の市場におきましては、各地方の荷主が問屋へ宛てて参ります。
問屋は仲買人に貫々(かんかん)=重量の確認、をしたばかりで、値段を決めず売り捌きます。
そうして仲買人は小売商に販売する。
その小売商への販売に値はつけますが、問屋と仲買人の間は、後で相場を決める。
百円のものを片方は80円といい、片方は120円という、そういう訳でほとんど定まった相場がないのであります。
それ故に不幸をみまするのは、皆各地方の送り荷主であります。
各地方の荷主というものはいい加減の相場を付けられて極められる。
・・・中略
之がためにも一日も早く市場法を実施して、
東京はもちろん各地方にも此の市場取締の上に生産の発達を十分に計り、又市場の調和を計り、
衛生上此他美観上にも不体裁のないことにしたならば・・・
是本案を提出した所以でありますから、御賛成を願いたいんであります。」
まことに立派な趣旨説明だと思いますが、本会では御賛成は得られず、持ち越しとなりました。
当時、他の議員は市場の仕組みを十分理解しておらず、
市場なんて煩雑なものがない方が自由に取引できていいんじゃないか?とか、
農商務省農務局長の答弁は、全国統一的な市場の取締や諸市場の整備の必要は認めるが、
具体化していくための調査を実施中であって、法案は時期尚早であるというものでした。
が、第二回委員会、第三回委員会と、川島案を修正し「市場法案」として正式に衆議院を通過し、貴族院に送られました。
そのときは審議に至らず、以降、否決されています。
よく今でも食品流通のことをよく知らない人がいう市場の古い慣習が、生産者を苦しめているのなら市場制度なんてない方がいいじゃないか?という、生産者と消費者を直で結べばいいんじゃないか、という短慮による放置と
現代の私たちにはちょっと想像しづらいでしょうが、各地域では県令というのがはばをきかしていて、法律が違う。
取り扱う品物もその価格もずいぶん違っていたので、実際別の食文化ともいえる慣習が存在していましたから、
日本全国に統一的な市場運営なんて無理だよ、国柄で全然違うんだから、というこちらも手つかずになりがち。
ですが、実際のところ、当時の農商務省は全国の市場調査をしていたのです。
これは、当時、なんらかの規制や統制を設けて管理していた各地の市場における県令の違いを調べたものです。
さらに興味深い資料があります。
それは、日露戦争後の経済動向に関する重要事項の調査や審議をするために明治41年に設けられた、農商務省の「生産調査会」が作成した様々な資料、その中における当時の市場調査です。
この「生産調査会」は会長葉農商務大臣牧野伸顕、明治の元勲大久保利通の息子
副会長に渋沢栄一を置き、委員70名で構成されていました。
ここでは、原材料・動力・工業教育・資金・運輸交通・税法等、我が国がとるべき指針と方策をまとめるものですが、
それに加え、組合及び職工・生活・海外工業状況・行政上の障害・官業の整理及び工業の補助、等も追加されていました。
この生活に関することの中に以下の五項目が入っていたわけです。
今見ても、大変立派な目標ですよ。
1.日用品ノ供給ヲ潤沢ナラシメ其低廉ヲ図ルコト
日々必要とする生活必需品々を不足させず安価にするように
2.公設長屋ノ制ヲ設クルコト
公営住宅をつくるように
3.交通政策上職工二特別ナル制ヲ設クルコト
通勤労働者のための交通政策をおこなうように
4.貯蓄機関の設備ヲ完全ニシ質屋ノ取締ヲ厳二スルコト
銀行への貯金を奨励し、貸金業を厳しく取り締まるように
5.力メテ物価ノ低廉を期スルコト
努めて物価を下げるように
この1.の日用品の供給を潤沢ならしめその低廉を図ること、のためには、各所に日用品市場を公設することを急ぐように。
という指示も出ていました。
都市細民層の生計が年々悪化することと、それが社会騒乱発生の基盤になり得ることを掲げ、
その解決手段として日用品市場を公設して、中間経費を節減し、「低廉良質」の日用品を供給すべきである、と書いてあります。
その「生産調査会」、本庁に座っているだけの調査員ではなかったようで、実際に現場をまわって凄い調査しています。
私が注目しているのは、この赤線部分、各地の市場の符牒や延滞金、前払い金、魚価の比較、のところです。
ほんとに調べてるんです。
この日本地図で示されているのは各地の市場ですが、凡例のとこを拡大しますと
こう、書いてあります。
黒丸のところ、「金額を明言して競売する魚市場」、そして白丸のところは「代名詞または符牒を用いて競売する魚市場」。
地図上で赤丸にしてみましたが、この時点で、金額を明言して競売していた市場は数えるほどしかありません。
市場ごとに様々にやり方が、慣習が違う、
数字ひとつとっても違う言葉を用いていました。
つまり、市場どおしで情報を共有していないんです。
むしろ、わざわざ言葉を変えて、新参者が入ってこられないように、閉鎖しているともいえるでしょう。
拡大していますが、京都の舞鶴市場では、リク、マタ、チカラ、ダリ、オンデ・・・、
大阪の雑魚場(ざこば)市場では、サ、リ、ト、ハ、オ、モ、シ、ロ、イ・・・
ここまで日本中を調べている、サボっていない。
しかも、こんな専門用語、市場内に入り込んで信用を得られなきゃ調べようがないでしょう。
これ、各県ごとに調査してあるんです。
現代でも市場内部の様々な動きや決まり事は、外部の人からは見えにくいわけですが、
当時、簡単に遠隔地に移動したり通信機器の発達していなかった当時、ここまでの調査はすごいです。
この各県、(当時はまだみんな藩とか国といった頭ん中なんでしょうが)市場の市場名を見てましたら・・・
ビックリなんですが、、民間ですよ、開設者・運営者。
静岡市場とか沼津市場とか、ごく一部じゃないですか!なんとなく公共っぽいの、公設っぽいのは。
大阪の雑魚場とか木津、堺のような、大都市だけじゃないですか?なんか民間とか個人じゃないのは。
これを、全国の市場を公設で、公共で統合しようとしていたのか・・・
それは、大変だろうって、利害調整やその後の保証ふくめ、大変だったろうと想像つきます。
また、こんな調査資料もある。
魚種ごとに、各地域での価格差を調べてあります。
わかりやすいように、色を付けてみましたが、
紫はウナギ、桃色はタイ、緑はサワラ、赤がマグロ、青がカツオです。
当時と今では人気の魚種も違うのかもしれませんが、やはり東京か大阪の方が高く売れる、高く買ってくれる。
同時に地域で差が出てるのが、中国地方ではそれほどでもないウナギが、東京と長崎で高騰しています。
ならば、生産者としては、是が非でも東京に持ち込みたいところですよね。
当時の日本橋への入荷統計というものもありますが、これも大変驚かされるのが「輸入」という文字です。
考えてみれば「輸入」には、「はこび、いれる」という意味であって、外国からを限定するわけではありませんね。
にもかかわらず、輸入と書いてあるということは、当時の感覚としては、市場を越境し入荷していたということなのでしょうね。
船による入荷が一番多いのは三崎からで、鉄道によって北海道からも入荷しています。
当時、北海道から入ってきているのはサケでしょうかニシンでしょうか
なんでも、入ってました!
すでに、当時から日本橋市場にはなんでも持ち込まれていたということです。
入荷時間も調査してありました。
なんだかですね、明治時代のコンサルタントの方がチャンとしていますね。
農商務省の人が、豊洲市場もやってれば、あんな、東京都みたいな失敗はしなかったでしょうね。
つづく