「米騒動」を機に、戦前の日本は大きく変貌するのですが、
この時期を捉えた、映画や小説のたぐいが少なすぎるのです。
だから、わからない。
正直、歴史というのは年表やら学者の説明を聞いてもさっぱりアタマに入ってこない。
むしろ、そこは歴史小説が大活躍するところです。
そして、かつての大河ドラマです。
私も鎌倉時代をいえば「草燃ゆる」だし、幕末といえば「花神」です。
戦国から桃山時代といえば「黄金の日々」だし、室町時代は「太平記」でしょう。
そういったストーリーがまずないと、主人公がいないと共感や感情移入も出来ないでうわっ滑りの知識で終わってしまいます。
歴史小説の大家である、司馬遼太郎さんも、戦国に始まり幕末も縦横無尽に興味深い人物を史実に基づきながらも活き活きとユーモア溢れる熱い人物像を描いていますが、日露戦争までなんです。
その後の時代の作品がないだけでなく、いわゆる司馬史観といわれるものがありますが、
幕末から明治までは良かった、日本人近代の青春だ!
しかし、昭和はいけない、軍部は大嫌いだ、戦車兵で見たことも何もかも、、
戦前の列強と日本の関係については、太平洋戦争については、とりあえず見ない!
ということで、歴史小説のジャンルに組み入れていない。
また、もう一人の大家である吉村昭さんも、
大西洋戦争における敗戦から始まり、ドライな筆致で幕末から戦後復興を中心に、
極限状態の人間の尊厳を描く漂流記や牢獄ものも独特の作風ですが、
武将だけでなく市井の技術者や組織を通じて時代精神を描かれていますが、、
大正と昭和をつなぐ部分が抜けています。
記録や伝承も数多く残っているはずの時代です。
大きく時代を転回させたかに見える事件なのですが、何も描くに値しないのでしょうか?
いえ、そうではないでしょう。
つまり、ここには「何かがある」と見るべきでしょう。
ちなみに、司馬遼太郎さんも吉村昭さんも、その作品はエンターテインメントとしても優れ、詩的表現や豊富な語彙、そぎ落とされた文章のテンポ、方言、言葉遣い、慣用句の駆使、人間描写としても精緻極まり、読書という架空経験でありながら、主人公や文章の行間から時代精神をかぎ取り、当時の社会や空間がダイレクトに伝わり、読書後の読者の人生の体験を膨らませてくれる素晴らしい作品ぞろいです。
私が司馬さんの作品で好きなのは、全部好きですが、やはり「国盗り物語」、若き信長が「マムシ!死ぬな!」というところ
「功名が辻」の書き出し、ボロボロの伊右衛門が、「俺にも嫁が来る、嫁、嫁、嫁、嫁」、美濃の空は真っ青に晴れていた、っていうところ
吉村さんの作品でやっぱり凄い!と思うのは、全部凄いですが、尾崎放哉を描いた「海も暮れきる」、胃カメラ開発史の「光る壁画」、
今日は、この作品だったというだけで、時と場合によって、そのときの自分の心理状態や取り組んでる仕事の具合でも、
マイベストオブ司馬遼や、マイベストオブ吉村は変化するわけですけどね。
考えてみれば、そのような、歴史小説のネタになるような物語が、「米騒動」の周辺には転がっているはずだろうと思います。
もう一度、米騒動が起こった社会、時代背景をみてみましょう。
食料が投機的に扱われ、食料不足でもそれを市中に流さないような商社や倉庫や米屋や商人たち、
米騒動が勃発するまで、政府は何もしなかったのか?というと、そうではありませんでした。
明治政府が始まってすぐに、都市流入する人口をまかなうための食料事情の解決をはかろうとしていました。
明治10年(1877年)には「魚鳥並青物市場卸問屋仲買営業例規税則」というものを発布しています。
江戸時代から、日本橋市場とかあったんじゃないの?と聞かされてきましたが、
日本橋の魚市場は家康が、大阪の佃島から森孫右衛門を招いたときからが始まりです。
日本橋周辺は高層ビルが林立していますので、現在ではとても魚河岸があったようには見えないのですが、
現在でも日本橋川は残っていますから、往時と街区は同じです。
これは、私の好きな絵ですが、正月2日の日本橋の夜の賑わいを書いた絵です。
大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売
橋本貞秀画 万延元年(1860)
魚河岸付近を拡大してみました。
日本橋魚河岸の発展までは、江戸に大きな魚介を販売する所はなかったようです。
その前から、神田に青物市場がありました。
慶長年間(1596~1615)に現在の神田須田町付近の八辻が原にて野菜や果実の販売をおこなったのが始まりといわれています。
慶長5年に関ヶ原の戦い(1600年)、慶長8年に徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた頃です。
八辻の名のとおり、交通の要衝として商売繁盛の場所であったようです。
神田川を遡上して右岸の佐久間河岸に近在や千葉から運ばれた野菜を下ろしていたそうです。
神田川にかかる和泉橋と、土手の奥には柳森神社が見えています。
この近辺は今でも昔の地形を比較的にそのまま残しているところで、同じスケールで現在の地形が重なります。
柳森神社も同じ場所にあって健在です。
江戸時代にはすでに、神田市場、駒込市場、千住市場が江戸の三大市場として賑わっておりました。
そのほか、京橋、本所四ッ目、浜町、両国にも、路傍の売買から発展して常設の市場となったのは、交通の要衝と人々の賑わいを兼ねたところから発展したものです。
そのうち、神田市場が幕府御用の触頭を勤めていたわけです。
▲外神田青物市場図(葛飾北斎)
当時の市場は幕府御用達の日本橋と神田における、納魚・納菜制を頂点とし産地独占と営業独占を特権的に保証されたうえで、
各地に個別の問屋の集合体としての株仲間制度をとっておりました。
明治維新後、新政府は経済政策や食品行政の遂行のために市場の統制を図ろうとしましたが、
伝統的な商慣行と特権が、株仲間および問屋組合という強固かつ不明文な組織運営によって、維持されていたのです。
同時に新政府は、営業自由の原則への改革をかかげましたが!
既存市場における伝統制度の衝突による混乱と弊害をもたらし、かえって食料供給に支障ときたすことにもなりました。
食品は毎日、毎食のことですから、いきなり制度をつくっていじろうとしても、急に改革といっても現状の物の流れや仕組みを十分理解していないと、即座に混乱し、即時に人々の生活を脅かし、社会不安だけでなく場合によっては、官製不況や官製飢饉をもたらすからです。
そこで、政府は明治10年、前述の「魚鳥並青物市場卸問屋仲買営業例規税則」で、現状の市場組合を中核として、制度を再編することによって混乱の収束をはかったわけです。
しかも、この規則の中身は、老舗の組問屋の方から「市場の交通、衛生等に関する秩序維持のため、自らの取締規則措置」として作成され、市場の近代化のために再建と再興を求め、東京府に申請されたものです。
▲楠本正隆 大村藩出身、大久保利通の腹心とも言われる
それを、東京府知事の楠本正隆が、大隈重信大蔵大臣あてに、府税の出納者としての市場業者の保護のカタチで発布されました。
つまり、既に出来上がっていた市場の伝統的な仕組みや慣習を、制度化し規則化することで、行政政策に取り込もうとしたわけです。
この規則は、以降の模範的および先駆的な制度として全国に波及していくことになります。
この規則の大きな目的は、徴税のために許可市場以外の類似市場を認めないということと、
旧来の問屋組合の保護主義的政策により統制をはかるという2点です。
つまり、既存の民間派生的市場や、旧幕藩体制からの組織にお上のお墨付きを与え、その市場の仕切りを既存の頭目に任せるかわりに、迅速な食料行政と市場の統制を確保しようという意味では、実行力のある妥協的かつ穏便なものといえるでしょう。
が、結局は旧体制を追認したものに過ぎず、食料行政、市場統制においては、多くの問題を残したままでした。
東京の規則は各県ごとに同様に県令として整備されていくことになりました。
その中でも、滋賀県が明治19年(1886年)初めて「市場」というものを定義しています。
滋賀県市場取締規則第一条で「卸売市場とは、常に時日及び場所を定め、売買主の中間に立ち物品の競売をなすもの」としています。
▲滋賀県大津公設市場
次いで、長野県、宮城県では、「常設であること、魚または青物であること、と生鮮食料品卸売市場であること」を明文化しています。
▲伊達政宗公の仙台開府以来、300年の歴史をもった河原町市場
その後、全国に波及していく卸売り市場の最低限の要素として、以下に定まっていきます。
1.一定の場所であること
2.一定の日時であること
3.多数を集合させる
4.競売の方法の確立
その目的は、円滑な中継機能と公正な価格決定機能の二つです。
大事なことなので、もう一度いいますよ、目指すところは、生鮮食料品の
1.円滑な中継
2.公正な価格
です。
これが、大事なんです。
逆に考えれば、この円滑な中継と公正な価格形成が出来ていなかったからこそ、
政府が統制に乗り出そうとしていたわけです、明治維新からすぐに。
すぐに始めた、そしてすぐにでも出来そうなことですが、
しかしながら、なんどもチャレンジするのですが、
日本近代政策の傑作ともいわれる、
日本の食文化を飛躍的に高め、日本人の食の知識や調理技術をほぼ全戸にまで広め、
日本人の衛生的かつ栄養学的な飛躍をもたらした、卸売市場法の完成と実施にいたるまで、
そこから50年もかかっているんです。
なぜか!
⑩につづく