かつて物議をかもしていた、傾斜地マンション問題ってご存知でしょうか?
傾斜地マンション問題と呼ばれたり、地下室マンション問題とも呼ばれたりしますが、、
要は、斜面地に建てようとするマンションにおける建築において
建築基準法での想定外の問題、もしくは脱法的解釈の問題です。
傾斜地に建つマンションって、こんな感じに建ってたりしませんか?
傾斜の角度や段差によっては、この図のように上と下で高さ関係が数階も違うようなケースがあります。
当初、この問題が大きく報道されたのは、横浜です。
横浜を含む神奈川県といってもいいでしょう。
それは、神奈川県の地形的特徴によるものです。
神奈川県東部は、海に向かって複雑な尾根の稜線がたこ足に海に向かって下りています。
ちょうど手のひらを広げて指と指の間に谷や川や低地が入り組んでいるのです。
そのため、このエリアで建築設計や工事をしたことがある方ならわかるはずですが、、
坂だらけ、崖だらけ、擁壁だらけ、路地が階段、路地が細くウネウネ、非常に設計しずらい、許可を取りにくい、工事が大変。
ということに加え、横浜は崖地条令が超キビシイので、斜面地を元に開発しても採算が取れない。
安い土地と思って飛びついたら大変なことになる。
そういう場所ですね。
そこが、現在では山を削り、谷を埋め、海を埋め立て都市になっているのです。
この横浜村は、江戸時代の末期に、黒船来襲によって1854(安政元)年日米和親条約が締結され、
その4年後には日米修好通商条約の締結により、まず神奈川宿に開港場が置かれた後に、
1859(安政6)年7月1日(旧暦6月2日)、横浜が開港したのです。
▲ 安東広重の東海道五十三次に描かれた、神奈川宿
なぜ、神奈川から横浜に移ったのか?諸説ありますが、湾の水深です。
当時の大型船の停泊のためには、四尋(よんひろ)約水深7メートルが必要だったようなのですが、
神奈川港ではその水深に至るまでは1㎞の距離がかかりました。
それにひきかえ横浜村はググッと急に深くなる。
100メートルも沖にいけば7メートル水深に到達したからこそ、といわれております。
今の首都圏では東京に次ぐ大都市、未来都市、有名都市としての横浜ですが、明治まで町ではなかったのです。
漁港ですらない。むしろ、寒村。総戸数100戸くらいの半農半漁の小さな漁村。
元々、狭いのです。
平地が少ない、山から一気にすぐ海になるという典型的な日本の地形ですね。
なので、住宅地が斜面を上ってきてしまったわけです。
つづく