昭和62年度に製作されたという、築地現地再生案を見てみようの続きです。
浜離宮側から見た空撮イメージ
南側の運河上空から
この計画案を作成したのはいったい誰なのでしょうか?
資料によれば、(株)環境システム研究所とされています。
環境+システム、という名の会社。1979年設立
としては、「環境」と「システム」をキーワードに据えたのはずいぶん早いですね。
地球環境問題が声高に言われ出したのは1990年代頃だと思います。
それまでは、どちらかというとこのジャンルは、我が国ではむしろ高度成長期に急激な重工業化の裏で全国でさまざま名問題を起こしてしまった公害、その「公害対策」でした。
日本の主な公害事件を見てみますと、
1885年 東京市深川区(現東京都江東区)の浅野セメント(現太平洋セメント)深川工場の煙突からの降灰
1890年頃 足尾鉱毒事件 - 原因企業:古河鉱業(現古河機械金属)
1910年頃 イタイイタイ病 - 原因企業:三井金属鉱業
1923年 神奈川県川崎市の鈴木商店(味の素)工場からの排水により、ノリ養殖に被害。
1937年頃 安中公害訴訟 - 原因企業:東邦亜鉛
1956年 水俣病 - 原因企業:チッソ
1958年 江戸川漁業被害 - 原因企業:本州製紙(現王子製紙)
1965年 第二水俣病(新潟水俣病) - 原因企業:昭和電工
1960年 四日市ぜんそく - 原因企業は四日市コンビナート複数
1969年 大阪空港訴訟 - 大阪国際空港(伊丹空港)の航空機騒音
1970年 光化学スモッグが東京で初めて確認。
1970年 田子の浦港ヘドロ公害 - 製紙会社からの排水によるヘドロ公害。
1970年代 スパイクタイヤによる粉塵公害。
1971年 土呂久砒素公害 - 宮崎県高千穂町の砒素焼きをしていた鉱山の周囲に砒素公害が発生。
1975年 江戸川区六価クロム廃棄事件
1975年-1990年 豊島事件 - 香川県豊島で廃棄物処理業者が有害物質を含む廃棄物を不法に埋め立て。
もっと規模の小さな公害は日本中いたるところで起きていたと思います。
横浜国立大学に安全工学科が設立されたのも1967年でした。
その後、大阪大学にも環境工学とか北海道大学にも衛生工学とかが設立され、公害対策を吃緊の課題としながら、人間生活における安全と快適性を検証する学問分野が広がったのです。
なぜ、私がこんなに詳しいかと言いますと、
たぶん、ヘドロ怪獣の出て来る「ゴジラ対ヘドラ」や、公害をテーマにした特撮ヒーロー「スペクトルマン」、またしてもヘドロ怪獣「帰ってきたウルトラマン」第1話登場のザザーン、宮崎駿先生の「風の谷のナウシカ」らのせいだと思うのですが、
高校時代に地球環境悪化を憂いて、将来はそれらの汚染された自然を浄化するような仕事に付きたいと考えたのでしょう、横浜国立大学の安全工学科を受験しているからです。
ヘドロが原因とされた公害怪獣が構想され、繰り返し登場した昭和40年代は、科学技術の発展の影の部分で、日本中の海や川が汚れていくことを、公害=怪獣として象徴化することで、全国民が悲しみの目で見ていたことがわかります。
昨年、豊洲市場の盛り土問題でテレビでよくご一緒した浦野先生は、横浜国立大学の安全工学科教授でしたので、控え室で、「先生、実は僕は先生の教え子になってたかも知れないんです。」とお話しましたら、すいぶん喜んでおられました。
結局、早稲田の建築学科に進学してしまったのですが、
もし、横浜国大の安全工学に進学していたら、最後の安全工学生でした。
なぜなら、翌年に安全工学科はなくなってしまったからです。
公害対策は、もっと広く、環境を考える学問に広がっていきました。
それと、同時に「公害対策基本法」も、「環境基本法」と名を変えています。
環境基本法の中の、大気汚染対策法、土壌汚染対策法、悪臭防止法、騒音規制法、工業用水法等に受け継がれています。
と、いう風に、大学の専攻ジャンルの統廃合は社会の動きに影響を受けやすいのです。
たとえば、かつての工学部の花形であった造船学科は今はどこにも無いです。
船舶海洋工学として統合されています。
話しは戻りまして、
昭和62年度版の築地再生計画を立てた(株)環境システム研究所。
どこかのシンクタンク?研究所?なのでしょうか。
代表者は原田鎮郎(はらだ・しずお)さん。
愛知万博のチーフプロデューサーも勤められています。
そういえば、愛知万博は「愛・地球」をキーワードに環境をテーマとされていましたね。
原田鎮郎
工学修士 一級建築士
愛知県立芸術大学客員教授 上海同済大学客員教授 国際建築アカデミー(IAA)プロフェッサー
早稲田大学、日本大学非常勤講師
■略歴
1943 東京に生れる
1966 早稲田大学理工学部建築学科卒業
1968 同大学院理工学部吉阪研究室修士課程修了
1968〜75 (株)菊竹清訓建築設計事務所 在職
・ハワイ海上都市計画
・東京湾海上都市計画
・パサディナハイツ
・沖縄海洋博覧会政府館「アクアポリス」等を担当
1979 (株)環境システム研究所を設立 現在に至る
建築設計と共に社会システム、人工地盤システム、
エネルギーシステム、新交通システム、
福祉環境システムの開発に従事
2001 2005年日本国際博覧会チーフプロデューサーに就任
会場マスタープラン策定、グローバル・ループ設計
■賞暦
・第6回世界建築ビエンナーレグランプリ
・中部建築賞
・'91商環境デザイン優秀賞
・照明学会優秀施設 (以上 フォルテ)
・屋上、壁面、特殊緑化技術コンクール特別賞 (2002年 総泉病院)
・2005年度 グッドデザイン賞(愛・地球博 共同受賞)
■著書
「コミュニティーと都市」 1976 産業能率大学出版部(共著)
「縦型都市構想」 1989 海文堂
「都市居住のフロンティアデザイン・層構造モジュール」 1991 理工図書
「建築を考える1」 1991 鹿島出版(共著)
「空へ伸びる都市空間」 1999 オーム社
「地球大交流」 2006 東急エージェンシー(共著)
工学修士 一級建築士
愛知県立芸術大学客員教授 上海同済大学客員教授 国際建築アカデミー(IAA)プロフェッサー
早稲田大学、日本大学非常勤講師
■略歴
1943 東京に生れる
1966 早稲田大学理工学部建築学科卒業
1968 同大学院理工学部吉阪研究室修士課程修了
1968〜75 (株)菊竹清訓建築設計事務所 在職
・ハワイ海上都市計画
・東京湾海上都市計画
・パサディナハイツ
・沖縄海洋博覧会政府館「アクアポリス」等を担当
1979 (株)環境システム研究所を設立 現在に至る
建築設計と共に社会システム、人工地盤システム、
エネルギーシステム、新交通システム、
福祉環境システムの開発に従事
2001 2005年日本国際博覧会チーフプロデューサーに就任
会場マスタープラン策定、グローバル・ループ設計
■賞暦
・第6回世界建築ビエンナーレグランプリ
・中部建築賞
・'91商環境デザイン優秀賞
・照明学会優秀施設 (以上 フォルテ)
・屋上、壁面、特殊緑化技術コンクール特別賞 (2002年 総泉病院)
・2005年度 グッドデザイン賞(愛・地球博 共同受賞)
■著書
「コミュニティーと都市」 1976 産業能率大学出版部(共著)
「縦型都市構想」 1989 海文堂
「都市居住のフロンティアデザイン・層構造モジュール」 1991 理工図書
「建築を考える1」 1991 鹿島出版(共著)
「空へ伸びる都市空間」 1999 オーム社
「地球大交流」 2006 東急エージェンシー(共著)
という、ご経歴ですが、その中に非常に興味深いご実績があります。
それは、「菊竹清訓建築設計事務所ご出身」で、「アクアポリス担当」です。
「アクアポリス!」
「なにもかも懐かしい」
当時、建築とSFが融合した世界観を具体的に示した、伝説巨人・菊竹清訓の名作。
昭和40年男であれば、誰でも知ってる「海場実験都市アクアポリス」です。
1980年代にピアノ&ロジャースたちによる「ハイテク建築」が流行しましたが、
彼らのようにデザイン表現としての「デフォルメされたハイテク感」ではなく、
マジのハイテク、ガチのハイテク。
この「アクアポリス」が、なんで建築関係の受賞を受けていないのか?大変不思議です。
「海に浮かぶ都市」の実験棟です。
石油採掘のためのプラットフォームを彷彿とされる重機動メカですが、このアクアポリスは実際に海上を移動しました。
さらには、台風等で海が荒れるときには、波浪を避けるために自沈し再浮上可能な機構が盛り込まれていたという、
「建築というには巨大過ぎる、都市と呼ぶには人口密度が足りない」その正式名称は、
「半潜水型浮遊式海洋構造物」こと、通称アクアポリスです。
このアクアポリス、当時の小中学生にはとてつもない、未来的なプロジェクトに思えたのですが、沖縄海洋博後は観光客も訪れることなく、徐々に朽ち果て、最後は屑鉄として上海にえい航されていったと聞きます。
高度成長期のクライマックスといえるような、永遠に未来志向の建築を、菊竹清訓の下で手掛けた後に、
ご自分の事務所を始められた環境システムの原田さんは、
築地再生計画においてどのように思考されたのか?といいますと、
この報告書を読むと分かりますが、徹底して現地調査を試みられています。
特に、流通量調査が凄いです。
築地の中を動く人と運搬車を、深夜から午前中まで10分刻みで調べて、平面図中にプロットしてあります。
上図は午前5時15分から25分における、築地の中での人の動きと混雑度です。
200人を示すターレの黒玉と、200人以上を示す人の導線が円弧の内側に集中しています。
これを見る限り、すべてが混雑しているわけではないですね。
時間ごとに、集中している箇所は移動しています。
このような、流通量調査が10分刻みで、何枚も存在します。
築地の全稼働時間中の流通構造の調査がおこなわれているという凄い資料です。
しかも、昭和62年前後が築地がもっとも混雑大盛況していた時代です。
つまり、この調査書類の流通量が歴代MAXなんだ!ってことです。
これ以上の混雑は未だかつてない。
この資料さえ押さえておけばいい。
この調査の凄いところは、量と空間と質の変化を記録してあることです。
この時間軸に並べられた棒グラフも、人と乗り物の種類に分けてある。
そして、築地内のどの箇所かが分かる。
取り扱い品目ごとの集計もとってあります。
当時はパソコンも非力で表現能力も限られていた時代ですから、
手書きの表やグラフで現されていますが
このデータを今、活用するならば、流通項目の動的なアニメーション化して把握することも可能でしょう。
同時に、なぜ混雑しているのか、その原因は何か、検証分析するこもでき、
さらには、築地の方々が運用不可能視する現豊洲市場の空間構成や平面構成の問題点もすぐに分かるということです。
つづく