とうとう豊洲移転問題では100条委員会が設置される模様ですね。
捜査というか尋問、裁判みたいなものでしょうか、
「証言・若しくは資料提出拒否に対し禁錮刑を含む罰則」がある点です。
とうとう豊洲移転問題では100条委員会が設置される模様ですね。
私を知る人ならおなじみですが、
参照→真国立競技場へ15http://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-12041672080.html
この再生計画を新築地市場ならぬ、「真・築地市場計画」と名付けたいと思います。
そして、これは戦後のどさくさ増築を重ねて迷宮と化した築地市場の建築空間が秘めていた、真のポテンシャルを再度開放することにもつながります。
80年も経過している建築が再生できるのか?と問う向きもあろうかとは思いますが、
現に今、80歳で現役の施設です。
しかし、長年の無理無策がたたって、あちこちケガしてボロボロです。
ざっと代表的なものをご紹介しますと
床、そして床に接するカ所の痛みが激しいです。
荷卸しの場所もトラックやフォークがぶつかる場所です。ちなみに上の写真右側が築地における魔のヘアピンです。荷崩れや渋滞の危険カ所でもあります。
上の方を見上げますと、床補修が優先されている故か、おそらくまったくメンテされていません。鉄骨の耐火被覆が剥がれていますが、これはアスベストではありません。
コンクリートの角はだいたい丸くなっています。軒が低いとおそらく背の高いトレーラー等が衝突するのでしょう。外壁が剥がれたカ所があります。
青果と比較すると分かりますが、いかに水産市場が過酷な用途条件であるかが分かると思います。青果は水を使わないため床の痛みも少ないですね。
野菜は段ボールの梱包がメインですから実施床に水播くのは御法度です。
といったような要補修カ所が築地には数百カ所あります。
ですが、これで立派に機能してきた、頑張ってきた施設なのです。
ちなみに、この写真撮影したのは昨年の7月の夏日でしたが、市場内部に鳥が入ってくるとか、屋根の隙間や壁の隙間に虫がいるということはありませんでしたよ。
本当に不思議なのですが、ハエとか蚊とかといった飛行する小さな昆虫が見当たらなかったです。
築地を真に再生するのであれば、これらの補修の付け焼き刃ではなく、現行法の元でどのように対応していくのか?を考えていかねばなりません。
築数十年といった古い建築をどうにかしよう、というときに立ちふさがってくるのが、
「既存不適格」という言葉です。「きぞんふてきかく」と読みます。
「法律が出来る前から存在してるけど、今の法律ではちょっとマズいよ」という意味です。
日本で建築の法律が整備されたのは明治時代ですから、それ以前。
そして、戦後あらたに制定された建築基準法があるから、それ以前。
まあ、前者の代表的なものとしては、江戸以前の犬山城とかですかね。
後者のものとしては、戦前の洋館建築とか戦後すぐの市庁舎とか、けっこうあります。
あなたは、「既存不適格」です!って言われちゃったら、もうダメぽなイメージがするでしょう?
ところが、そうでもないのです。
この「既存不適格」の概念の存在で救われるケースもあるのです。
そこを解説していきます。
法律はすべて定義で出来ています。
たとえば、建築基準法上の「道路」とは、法第42条というところに書いてありまして、
建築基準法第42条第1項第1号(1項1号道路)
道路法による道路(国道、県道、市道等)
建築基準法第42条第1項第2号(1項2号道路)(開発道路等)
土地区画整理法、都市計画法その他の法令による道路
建築基準法第42条第1項第3号(1項3号道路)
建築基準法施行時以前より存在する道路
建築基準法第42条第1項第4号(1項4号道路)
道路法、都市計画法その他の法令により事業計画のある道路で特定行政庁が指定した道路
建築基準法第42条第1項第5号(1項5号道路)(位置指定道路)
土地所有者が築造し、特定行政庁からその位置の指定を受けた道路
建築基準法第42条第2項(2項道路)(みなし道路)
建築基準法施行の際、既に建築物が立ち並んでいる4m未満の道路で、将来は4mに拡幅が可能と特定行政庁が指定した道路
建築基準法第42条第3項(3項道路)
将来も拡張困難な2項道路の境界線の位置を中心線から1.35m以上2m(3m)未満に緩和する道。※ただし、崖地などは2.7m以上4m(6m)未満
建築基準法第42条第4項(4項道路)
6m区域内にある道路幅員6m未満の道路で特定行政庁が認めた道
1号・・避難・通行に安全上支障が無い幅員4m以上の道
2号・・築計画等に適合した幅員4m以上の道
3号・・6m区域指定時に現存していた6m未満の法42条適用の道路
建築基準法第42条第5項(5項道路)
6m区域指定時に現に存していた道(4項3号)で幅員4m未満の道。6m区域指定時に境界線とみなされていた線を境界とみなす。
建築基準法第42条第6項(6項道路)
幅員1.8m未満の2項道路 (建築審査委員会の同意が必要) ※古い城下町に多い。
と、ことこまかに決まっている。
なので、法律以前の建て物には現行法における、存在認定がなきに等しいのです。
どういうことかといいますと、法律上で人間の存在を認証しているのが戸籍ですよね。
出生届けと同時に戸籍が作られる、するとその人は法律上社会に存在することになり、義務教育やその他様々な国からの福利厚生や、同時に納税とかいったような義務も発生する。
その建築における戸籍に相当するのが登記ですが、これは課税のための財産登録であって、建築基準法と連動して建築物の構造や機能までを詳しく記したものではありません。
実質的に戸籍に相当するのが、建築確認と検査済み証と考えてもいいでしょう。
そこには何階建てであるとか構造は何とか、ちゃんと窓はあるかとか、建築物の主要な要素を記入したうえで、建築確認は計画する予定の建て物が法律に合致しているかどうかを確認し、検査済み証はその確認申請どおりに建築がなされた、ということを確認するものです。
なので、建築基準法以前の建て物や、建築確認申請を紛失してしまったケース、検査済み証を受けていないケース等々により、将来的に増改築を試みようとしたときに支障が出ます。
昔の建て物を、今の建て物の基準に合わせようとしても、建築確認申請がない、ということになると、元になる公的な認定資料がない、戸籍がないから法律上は非存在ということになります。すると、増改築できません。
そのようなケースでも、古い建物を再生している人が居ます。
私のブログをお読みの方であれば、みんな知っている再生建築のスーパーヒーロー、
青木茂さんです。
このときの紹介では、確認申請のない築40年の廃墟を再生した、とサラッと書いていますが、その手法こそが、「既存不適格建築の確認」なのです。
どういう意味かといいますと、
確認申請がない建築物は法律上は取り扱えない建築物になってしまい、合法的に増改築出来ないといいました。
それで、諦めたら廃墟のままです。
そこで、青木さんが取った手法が、「既存不適格建築の確認」
「既存不適格建築」とは
「法律が出来る前から存在してるけど、今の法律ではちょっとマズいよ」でした。
そのことを確認してくれ!と役所と協議したのです。
その狙いは、
「今の法律ではちょっとマズいけど、法律が出来る前から存在しているよ」と、
あらたな出生届けを出し直しているようなものなのです。
これが認められると、次に出来ることは、
「現行法に沿うように建て物を直すよ」と意味での確認申請を出します。
で、工事が終わったら、検査済み証を受けると、なんと!
元、廃墟だったはずの建て物が、確認申請と検査済証をもった立派な新築建物と同じ権利をもちます。
結果、金融機関から融資を受けることも出来るようになる。
ただ、古い建物をキレイにして使っていますというのではなく、まったく新生させたのです。
さらに、平成24年度より、増築範囲をそれまでの1/2までから、もっと増やせるようになり、既存不適格建築の混在の取り扱いも出来るようになりました。
これらの法改正は、国土交通省の既存ストック活用政策にのっとったものです。
青木さんはそうした時代の変化のはるか先に再生建築に取り組まれたきたのです。
青木さんのHPには、そういった奇跡的な事例がいくつかありますが、その中でも白眉なのが、
1933年に建設された、戸畑市役所庁舎を図書館に再生です。
築地市場の建設が1935年ですから、それよりも古かったのです。
築80年以上でしたから骨組みを調査しているときは、こんな具合だったそうです。
それが、こんなおしゃれな図書館になった。
これ、地元の人は嬉しかったと思いますよ。
長い間、80年といえば4世代くらい経過するぐらいの長さですから、
街の顔として慣れ親しんだ建築物、街を代表する建築。
おそらく地元の小学生の写生の授業ではだいたいこの庁舎描いたんじゃないですかね。
それを壊さないで再生した。
立派な人達です。
町村合併により中心市街地では大型のおおげさな庁舎が一過性の流行に乗ったドヤ建築として建ち、その反面吸収された側の町村には、無残にも壊されて空き地化したままの、庁舎や学校や図書館や市民ホールがあった場所を見る度に思います。
どうにかして残せなかったのか、何か新たな用途に変換してでも残すべきである。
なぜなら、街のカタチが変わるから、街の顔が消えるから、想い出がなくなるからです。
いつも言ってるように建築は50年経過してからが勝負なのです。
過去記事でも書いていますが公共事業の理想的な最終形態は「文化財」になることです。
築地市場は、今その資格を得たのです。
なので、現在の古い築地をそのまま残すのではなく、ここで手を加え、
新たな価値を追加したうえで次世代に渡す。
それこそが我々の使命だと思いませんか。
つづく
東京の乃木坂にあります建築設備メーカーTOTOさんが主催する「ギャラリー間」という建築専門ギャラリーにて、
「堀部安嗣展 建築の居場所」が開催中です。
http://www.toto.co.jp/gallerma/ex170120/index.htm
1月20から3月19日までですから、まだ三週間ほどの会期があります。
この展覧会は建築専門家ではなくても、多少は建築や住宅に興味がある方なら、それなりに楽しめると思いますから、ぜひご訪問されることをおススメいたします。
と、いいますのも、この「ギャラリー間」という場所がなかなか面白いのです。
周囲から目立つ青いビル。
いまどき少ないですよね、こういうコーポレートカラーのビル。
さらに、こんな青い壁面に緑のライン入れたりとか、、ちょっと70年代テイスト竹山実かよ!と。
ただし、外壁はきれいに大型パネル割りされ、そこにガラスカーテンウォールが壁を刳り貫き凹ますように入れられていますので、この大味でありながらゴージャスな雰囲気は黒川紀章さん風味でもある、外壁仕上げ的には80年代後半のポストモダン期の流行です。
こんなド派手というほどでもないが、すぐに分かる目立つビルの中にギャラリーが入っています。
この赤線で囲ったあたりがギャラリースペースなんですが、
青い壁の上の方に少し汚れたコンクリート壁が見えますね。
この、低層部のバルコニーみたいになったところろが「ギャラリー間」の屋上庭園となっております。
この石張りで打ち放しの壁面は、枯山水を翻案したもので、
真ん中に自然石がいい感じに置いてあります。
で、ここんとこ、ギャラリー間における展覧会では、この屋上庭の半野外性を意識して、
みなこの空間をパブリックアートのインスタレーションのように構想するのが常でした。
鉄骨のシャープな階段と空中渡り廊下から見下ろすこともできますしね。
つづく
築地市場で以前クリーニング場があったというのが話題になっていますね。
大戦後にGHQに接収され
QMランドリー(クォターマスター・補給部隊)のランドリーになっていたというものです。
株式会社毛利さんのHP
サービスニュース-第52巻 第1号-2にて詳しく紹介されています。
http://www.morri.co.jp/service.html?id=64
上記の記事では当時を撮影した8ミリフィルムが存在するとのこと、
是非、TV関係者の方や映像保存のご専門家の手で復元していただきたいと思います。
ここまでの築地市場の地歴についてざっと概観しときましょう。
江戸時代の築地は松平定信の浴恩園でした。田沼政治を「賄賂政治」として批判し、寛永の改革で有名、後に白河藩を立て直した松平定信が、将軍から拝受した築地の土地に日本庭園を設けていました。
明治維新後は海軍が置かれました。
その後は築地市場となるのですが、
戦後の一時期GHQに接収されて、米軍のクリーニング工場があったというのが今話題になっています。
GHQ作成の1948年の東京地図にも出ていますね。
豊洲市場問題では、地下水モニタリングを巡ってまた騒ぎが起きていますね。
日刊スポーツ2017年3月4日記事
http://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1787599.html
豊洲問題で新展開 都の地下水調査、手順一致せず
豊洲市場の移転問題を審議する東京都議会の特別委員会は4日、地下水モニタリング調査を行った業者の参考人招致を行った。1~8回目までの調査とは桁違いの環境基準の最大79倍に達するベンゼンを検出した9回目の担当業者は、都の指示で従来とは違う方法で採水を行ったと証言した。
地下水モニタリングは、専用の井戸の中にたまった水を一度抜き(パージ作業)、新たにたまった新鮮な地下水を分析資料として採水する。
しかし、9回目のモニタリングを担当した湘南分析センターの担当者は「1カ所、地下水が枯渇した井戸があり、パージ水を分析資料として採水する指示が(都から)あった」と明かした。
1~8回目の業者がパージ作業の翌日に採水していたのに対し、湘南分析センター担当者は「(都から)同日採水の指示があった」とも証言。1~3回目を担当した日水コンが作成した検査方法の「手順書」について「初めて聞いた。見たことがない」とも話し、調査方法が均一でなかった可能性が浮上した。
担当者は、「昨年11月21日に基準値を大きく超える値が出たと都に報告した。1月14日の専門家会議で『暫定値』と発表されたのは非常に疑問だ。報告時点で再調査もできたはず。『暫定値』とされた風評被害は大きい」と、都への不信感をあらわにした。
小池百合子都知事は、「詳しく聞いていない。確認してみます。いずれにせよクロスチェックをしている。どういう数字がでるか、確認したい」と話した。
どういうことか?といいますと、
豊洲市場の延期理由のひとつであった、土壌汚染作業の成否を判断するためのモニタリング作業において
1~8回まで、
と9回目で、
数字が大きく違ったわけですが、「調査手順も違っていた!」
ということがわかったということです。
その手順とは、「パージ作業」の時間と言われています。
聞き慣れない「パージ」という言葉は、英語でPurge、除去とか排除という意味です。
普段は耳にしないパージですが、歴史的には「マッカーシズム」、「レッドパージ」(赤狩り)という言葉がありました。ハリウッドで有名監督や脚本家、俳優等から共産主義者を排除した事件が有名です。
「真実の瞬間」、「マジェスティック」、「トランボ」といった映画にもなっていますね。
そのパージです。
ずっと穴に溜まってた水は、濁り水みたいなものなので、いったん捨てて、
新鮮な地下水を取り出してチェックしましょう、というものです。
パージの時間が違った。
報道では「手順が~違う~」と、なにやらやり方のすべてを変えていたかの印象ですが、
要は、「放っておいた時間」が違ったのです。
東京新聞 2017年3月5日
豊洲地下水調査 基準超の9回目採水法変更 都が指示、日程優先を業者が証言
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201703/CK2017030502000130.html?ref=rank
東京都の豊洲市場(江東区)の地下水から有害物質が検出された問題で、都議会の特別委員会は四日、調査を請け負った六業者を参考人招致した。このうち、有害物質の値が急激に上昇した最終九回目の業者は、作業を急ぐため、都の指示で八回目までとは異なる方法で採水したと明らかにした。都の指示がデータの変化に影響した可能性がある。
調査は環境省の指針に基づき、異物が混じらないよう、観測井戸にたまった水を取り除く「パージ」という作業後、新たにたまった水を採取する手順だった。
各業者によると、一~八回目はパージの翌日か翌々日に採水した。しかし九回目を担当した湘南分析センター(横浜市)の幹部は、できるだけ当日に採水するよう都に求められ、二十~三十分後に水位が回復してすぐ採水したと説明した。
同社は、二百一カ所の調査地点のうち青果棟のある五街区の一カ所では「(本来は使わない)パージした水を分析試料として採取するよう、都職員から指示された」とも話した。都によると、この水からは有害物質は検出されなかった。
都の新市場整備部の幹部は四日、記者団の取材にこれらの指示を認め、理由を「地下空間にたまった水を排出する作業に間に合わせるため、スピードを重視した」と述べた。
委員の都議の一人は、有害物質のベンゼンが揮発性のため、「二、三日と二、三十分では条件が変わりすぎる」と指摘した。
小池百合子都知事は四日、都内で取材に応じ「詳細はまだ何も聞いていないので、確認した上でお答えしたい」と述べた。
豊洲市場はガス工場跡地で、都は二〇一四年から地下水の定点観測を実施。八回目で環境基準値を上回る有害物質を初検出。今年一月に結果を公表した九回目では、最大で基準の七十九倍のベンゼンなどが七十二カ所で出た。都は基準を大きく超えた地点を中心に再調査しており、今月中旬ごろに結果を公表する。
この「水が溜まるまで放っておいた時間」が、
1~8回目までは、2~3日。48時間~72時間。
9回目は0.5時間。
96倍~144倍くらい、放置時間が違う。
調査対象の有害物質は揮発性だった。
蒸発しやすい物質、ベンゼン。
油性マジックを30分蓋をしないで置いておいたケースと3日間放っておいたケース。
その違いみたいなもの?
さらにマズイことに、9回目は20~30分では水が上がってこなかったので、パージした水、元の溜まり水をサンプルに出した。
これはダメ。
パージ水では、もっと抜けてる、揮発成分が。
これはイカン、有害物質が抜けてしまう可能性がある、、、9回目は!
抜けすぎて不正確だ!と厳密さを求める方々がお怒りのご様子です。
今後の「パージ作業」専門家の見解を待ちたいと思います。
で、私が今回ブログで書こうと思っていたのは、モニタリングの件ではなく、
豊洲市場で実現している?はず?と言われている?
HACCPとコールドチェーンについてでした。
築地では出来ていないのでしょうか?
豊洲では出来ているのでしょうか?
築地市場再生を目指す意味でも、豊洲市場の能力を知る意味でも
HACCPとは何か、コールドチェーンとは何か、について概観しておきましょう。
HACCPについては以前簡単にご紹介してますよね。
↓
つづく
HACCPとコールドチェーン、これ別々の概念なのですが、
コールドチェーンをやろうとするとHACCPも出て来るし、
HACCPの実現にはコールドチェーンも関連するという互いに切っても切れない関係です。
どちらも、食品の取り扱いを巡る衛生管理や品質維持のための手法と機構です。
まず、カタカナ語でなんとなくイメージしやすい「コールドチェーン」の方からいきますが、
「コールド」は冷たい
「チェーン」は自転車のチェーンや鎖のことを指しますが、連結させる、連鎖する、という意味です。
つまり、冷たいままの繋がり、冷温維持接続といったことでありまして、要は温度を管理したまま全体をつなぐ、ということ。
食品の生産地・生産者から消費地・消費者まで持って行く、流通させる、ということです。
それはなぜか?というと
食品は温度変化によって価値が損なわれたりしやすいからです。
つまりは腐りやすい。
腐ったものを食べると中毒を起こします。
それを防ぐのが根本の目的です。
かつては、冷蔵庫も氷もありませんでしたから、魚にしても野菜にしても遠隔地に運んだり、長期に保存するためには、冷蔵ではなく塩蔵でした。
一部の細菌、塩が大好きな好塩菌を除き、細菌やカビは塩分濃度が高い状況下では、浸透圧により菌内部の水分が外に引っ張り出されて死滅することを狙ったもので、世界中の食品加工文化において塩蔵は発展しました。
つまり、コールドチェーンならぬ、ソルトチェーンによって、食品は保存流通されていたのです。
福井県の小浜から京都までの若狭街道を通称「鯖街道」といいましたが、若狭湾で取れた生の鯖を塩でしめて人力や馬に載せて丸一日かけて運びました。
現在では、この「鯖街道」はマラソンコースや街道沿いの観光地としても整備されています。
欧州の食文化には欠かせない、ハムやソーセージもこの塩によって、保存流通させた食品、ソルトチェーンですね。
塩が効かない好塩菌に対しては、有害な菌に対抗できる無害な好塩菌で醗酵させるという手法を編み出しました。それが味噌や醤油といった醗酵食品です。
何もかも殺菌できるような技術をもたなかった時代に、有害菌に対抗しながら食品価値を維持するために進化したのが各地の食文化を多様かつ芳醇にしてきた醗酵食品です。
こうした、食文化や食品貯蔵技術の発展により、食料の乏しいエリアや季節でも人類は活動範囲を広げてきたといえるでしょう。
そういた意味では、コールドチェーンというのはここ50年くらいで確立されてきた技術であり、冷蔵装置や冷凍装置は、登場してまだ100年も経過していません。
しかしながら、その流通技術の発展により、より遠くまでより早くより長期に、食品は運ばれ貯蔵されることが可能になりました。
続いて、HACCP
エッチエーシーシーピー?ではなく、ハサップと読むのですが、
HACCPとは、Hazard Analysis and Critical Control Pointの略です。
Hazard Analysis (危害の分析)、Critical Control Point(重要な管理のポイント)
HA分析に基づいて健康へ悪影響をおよぼす可能性のある要因の発生を防止または排除、もしくは、許容できるレベルにまで低減するための工程(CCP)を決め、その工程を重点的に管理する手法であり、これまでの事後対応型ではなく、食中毒などの健康危害の発生をあらかじめ予防することを念頭に置いたものです。
1993 年に国際食品規格委員会であるコーデックス委員会により食品産業事業者が守るべき、国際的な食品衛生管理システムとしてHACCPシステムが位置づけられました。
特にEU市場に水産物を輸出しようとすると、HACCP システムによる衛生管理の導入が必要となります。
ここでも、テーマは食中毒や異物混入の防止です。
コールドチェーンもHACCPも目新しい言葉に聞こえますが、
食品を長期に貯蔵し、遠隔地に届ける、というのは人類の生き残りをかけて培ってきた、普遍のテーマなのです。
つづく
東京都の北区に十条という街があります。
「条」と聞くと、京都の町を思い出しますよね。
北から一条、二条、三条、四条と京都の町には東西に流れる街路があります。
東京にも「十条」がある。
ならば、九条、八条、七条があるのか?といえばそれはありません。
東京の街は京都や札幌のように碁盤目になっていません。
皇居、旧江戸城を中心に円形と放射状道路がちょうど蜘蛛の巣のように広がっています。
そのため、京都、札幌のような街並みに慣れている方からすると、
まっすぐ北や西に進んでいるつもりが、いつの間にかぐるっと斜めにズレていきます。
碁盤目でもないのに「十条」とはなぜなのか、
源頼朝が挙兵した折に頼朝に参陣し鎌倉幕府の有力御家人となった豊島清元が、名付けたとも言われております。
豊島氏は紀州の熊野権現を都内に多数勧請したようでして、北区の王子神社もその一つです。
その十条の駅前が揺れている。
らしい、知り合いから十条がちょっとヤバイと聞かされたんです。
十条商店街といえば、どこの駅前もそうでしたが、一時は寂れた昭和の懐かしい趣を、
昨今地元の若手の努力により、都内屈指の面白く活気のある街に再生しつつあった。
行けばわかりますが、十条の駅が地形的にちょうど急斜面に乗り出すようなカタチもあって、
坂道路地から連なる商店街の雰囲気は、どこか温泉街を彷彿とさせる面白い風情なのです。
その十条の駅前に、なにやら場違いの計画がにわかに吹き上がっているのです。
なんだ?これは。
なぜ、駅前の商店街をぶっ潰してこんなタワーを計画しているんだ?
ワトソン君、これはちょっと調べてみるしかないよね。
ということで、十条駅前再開発について調査を始めております。
つづく
書評書きました。
「築地移転の闇を開く」
中澤 誠 (編集), 水谷 和子 (編集), 宇都宮 健児 (編集)
移転予定ギリギリで、問題が大きくクローズアップされた豊洲市場移転問題。それ以前から10年以上の長きにわたって粘り強く問題提起に取り組んだのが、著者の中澤誠さん、水谷和子さん、宇都宮健児さんらである。
本書はこれまでの経緯を、原因から問題の推移まで、特に中澤・水谷の二人が対談形式で語り尽くし、現在、巷で語られている豊洲市場問題における、正確でかつ根本的情報が開陳されている。
この問題の本質は、公共事業における公の概念を、真っ向から否定したことにある。卸売市場における公益性とは、生鮮食品の安定供給と適切な価格形成にある。そのために市場には非常に数多くの職種の関係者が、複雑な関係性を保ちつつ従事している。
ところが、計画を急ぐあまりに用地取得を強引に進め、施設設計の内容について、市場関係者の合意を得ることなく設計や施工が開始された。その杜撰なプロセスにより、公共施設として必須な検討事項や機能性、安全性が、疎かにされてきた。
もし予定通り移転していたなら、即日、市場機能は混乱を来たし、その後は永遠に機能回復しない可能性もあったのだ。
いわゆる「のり弁」と揶揄される黒塗りの行政開示書類を読み解きながら、欠けたジグソーパズルのピースを組み合わせ、最終的にその実態を詳らかにしていく経緯が、まるで遺跡発掘や事件捜査のようなノンフィクションドラマのように小気味よく、時にユーモアも交えながら展開していくのも本書の魅力である。
(大月書店1200円)
大月書店さん
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b272921.html
出版ロバの耳
日本ジャーナリスト会議・出版部会のブログ
http://shuppanroba.seesaa.net/article/447673046.html
築地市場豊洲問題は昨年来、さまざまな問題が発覚し、計画の杜撰さが検証され、無くなっているとされた有害物質が想定以上に検証され、関係者が100条委員会に呼ばれ、土壌汚染対策工事結果のモニタリングが再度おこなわれる事態になっております。
さらには、連日報道中の森友学園問題でも産廃処理見積もりをめぐる払い下げ土地価格操作の捜査も始まろうというような状態。
昨年のオリンピック会場施設見直し問題もその後の経緯があまり報道されておりませんが、
それら以上に、都民に、東京都の産業界に、いえ日本の産業界に、広範囲かつ深刻な打撃をおよぼす可能性のある大問題が隠れています。
都内の大規模催事施設である東京ビッグサイトが2年近く使えなくなる。
幕張メッセも使えない。
それが、もうひとつの市場問題。
「見本市」
「国際見本市」
見本市場問題です。
見本市?
ビッグサイトがダメでもなんか他の場所考えてあるんじゃない?
そんなのどっか広い場所借りればいいんじゃないの?
東京なんだからどっかあるでしょ?
東京ダメでも横浜とか千葉とかどっかあるんじゃないの?
そこそこ広い場所あるでしょう?あんなにハコモノ作ってきたんだから、、、
と思われる方もいるでしょう。
ありません。
準備していませんでした。
同時に、見本市なんてうちの会社では年に1回くらい出てるだけだよ、、とか
年に2~3回どこかで新製品アピールするだけじゃない?とか
違います。
見本市は毎日開催されています、市場なんだから。
この1~2ヶ月だけみても
非常に多彩。
フード、厨房機器、エネルギー、セキュリティ、照明、介護、建材、プラスティック、金属、セラミック、レーザー、映像、アパレル、シューズ、スイーツ、食肉、シューズ、アクセサリー
衣食住から化学工業、基礎研究、アメニティ、娯楽、健康といった具合に、多種多様な産業が毎日「見本市」を開催しています。
そして、ご自分の働く業界で考えてみていただければわかるように、「見本市」というのは、ただ業者が企業が「うちの製品どうよ?」とプレゼンする、発表して終わりではなく、
そこでお互いの仕事が、取引が発生する、リアルマッチングの出会いの場なのです。
一念発起で興したベンチャー企業が、開発した技術や製品を、乾坤一擲、なけなしのお金、最後の資金で勝負に出てたり、遠い地方の老舗の商店が、技術の粋を込めた商品の真の価値が分かる人と出会ったり、作った人にもなんの役に立つのかもわからない、世界のどこにも存在しなかった新しい素材の使い道を大勢の方に問う。
リアルSNSの世界が「見本市会場」です。
だから、思いがけない企業同士がコラボレーションしたり、新たなアイデアが沸いたり、新規取引先が見つかって生き残りに成功したり、新人を獲得したり転職に成功したり、大ブームが起きたり、そういう場所。
ありとあらゆる産業の同時多発的イノベーションの発信源となる時間と空間です。
まあ、いってみれば産業や企業の巨大な結婚式場といってもいいでしょう。
それがですね、2年近く閉鎖。
2年間東京都は結婚式禁止。
ていうか出会い禁止、付き合い禁止令。
多彩な産業の末端にまでいたる情報や人材の循環が止まる。
大丈夫なんでしょうか、
大丈夫ではないでしょう。
もし、これが実行に移されたら
日本の産業に大変な致命的な打撃。
オリンピック期間というたった二週間のためにだけの盲目的思考が生み出した
またしても、阿呆な連中の愚かな企て
そうなることを誰も予測しないまま、オリンピック招致計画に「ビッグサイト閉鎖」と書いた。
まったく考えていなかったようなんです。
閉鎖したら何が起こるか、
代わりの見本市会場の目処も立てないで、
ビッグサイトを閉鎖する計画を立てたようなんです。
ビッグサイトに一度も行ったことがない、という方々のためにも、
この一大事件を十二分に理解していただく緊急必要性を感じて、
この記事を展開いたします。
つづく
東京でオリンピック前後の期間、約二年間もの間見本市が開かれないかもしれない、、、
という問題の続きです。
これが、なぜ大変なことになるかというと、数千、数万とある、あらゆる産業の結節点、スタートライン、飛躍の機会といったものが二年間ストップする。
産業の循環に支障をきたす。
場合によっては産業を衰退させる。
ひいては、東京だけでなく日本の経済に大打撃を与えてしまう。
そもそも「見本市」がなぜ、そこまで大事なのか、、といいますと、
たとえば直接の商取引、主婦Aさんが洋服をBさんの店で買う、という現象の前段階。
Bさんのお店が、洋服卸しのC商事から仕入れる、という現象の前段階。
洋服卸しのC商事が洋服メーカーのD繊維と取引を開始する、そのための市場なのです。
図のように、洋服というジャンルで関わるすべての業者が集まるプロのための市場です。
なぜ、「見本」、「市場」かといいますと、
小売するわけではないので、その場にすべての商材をもって来るわけにはいかないから、
「見本」を持ち寄っているからです。
その分、もの凄くたくさんの業者が集まります。
たとえば、ものづくりの工作機械に関わる見本市のレイアウトを見てみますと、、
全国から集まった様々な工作機械メーカー、加工道具、製造ソフト、機械部品、等々の業者さんたちが準備した、細かく仕切られた小さなブースがギッシリ並んでいます。
このひとつひとつのブースはコマと呼ばれて、参加企業は出店料を支払ってこの見本市に出展されています。
それらのブースが並んでいる様子は、さながらお祭りの屋台のようですが、、
まさに、数日間の間だけ開かれる、各業界ごとの祭典でもあるのです。
年に一度の開催で、すでに30回とか50回とかを重ね、何十周年といった催しもあります。
たとえば、眼鏡にだけ特化した「国際メガネ展」。メガネだけで数百社が参加する見本市、
今年の10月に30周年、30回目だそうです。
たとえば、このメガネ展で注目すべきは、主催の中に福井県があるということです。
なぜ?東京で福井県?
なぜ?メガネで福井県?
実は、メガネと福井県には深い関係があります。
福井県の鯖江市がメガネの聖地と呼ばれるくらい、世界的な製造拠点であるからです。
だから、福井県が東京で見本市を主催している。
同時に、メガネというひとつのテーマだけでも数百の業界が集う、年に一度の見本市が存在するのです。
それが2年間も止まるとする。
ならば、福井県にとっても大打撃。
ビッグサイト閉鎖を発端として、福井県の日本の世界の、メガネ業界、フレームメーカー、レンズメーカー、眼科やファッションまで、商流ごとにおける商いの場が、出会いの機会が止まります。
もちろん、メガネだけではない。
3日間のイベントが年中開催されているとすると、ざっと100数十ジャンルの業界、それが二年であるなら、日本で活動するほぼすべての業界に波及するでしょう。
そもそも、「見本市」とはいつごろから始まったのでしょうか。
日本でいえば平安~鎌倉時代の12世紀。
1165年ドイツのライプツィヒに始まると言われています。
850年もの歴史があります。
つづく
「見本市」とは商談をおこなう場、その起源はドイツのライプツィヒといわれており、
850年もの歴史があります。
これが、会場です。
ドイツ後で見本市のことを「メッセ」といいますが、
これは、キリスト教の“ミサ”(英語では mass、ラテン語ではmissa)のことを、ドイツ語では“Messe”と表記します。
「見本市」という言葉は“ミサ”に由来しているとも言われています。
世界中で「見本市」は開かれているのですが、ドイツで開かれる見本市がいろんな意味で世界一と言われています。
それは、そこに商品を出す、出場することにステイタスがあるからです。
高校野球なら甲子園、とか高校ラグビーなら花園、みたいなものです。
見本市の聖地ですね。
ライプツイヒは。
銅版画や切手にもなっていますね。
街の中に見本市をおこなうための商館が建てられていたのですが、そこはちょうど通り抜けできるアーケード街のつくりとなっていました。
この元見本市会場であった商館は現在でも、メードラー・パッサージュ街としてライプツイヒの重要な歴史的観光スポットのひとつとして残されています。
ミラノのガレリアをモデルとしたそうですが、世界初の見本市会場専用の建築とは、アーケード街だったのです。
ここをそぞろ歩きしながら、いろいろな商品を見て歩いたというわけです。
確かに、アーケード街は雨に濡れることもないし、半野外ですが適度に温度も管理された空間です。
その後に郊外に作られた大型の施設はこのようなものでした。
見本市=Mustermesseのから取ったダブルMのマークが有名で、歴代さまざまなデザインを考案したり、ポスターデザインに活用されています。
ライプツィヒがそうした市場の会場として発展していったことにはいくつかの歴史的経緯があります。
この街は、中世ヨーロッパの流通網で陸路の大動脈の交点に位置していたのです。
ローマから北に延びる「帝国の道」そして東西を結ぶ「国王の道」と呼ばれた街道の心臓部がライプツィヒだったのです。
そのような地理的条件と、当時の領主間での商工業の振興競争といったものもあったでしょうが、長い歴史を通じてここでのメッセにブランド力をヨーロッパ全域にわたる商業的活力の原動力みたいなものが埋め込まれていったのです。
ヨーロッパ、特にドイツ、さらにはライプツイヒとフランクフルトの歴史を調べると、「見本市」重要性と「見本市開催都市」の優位性がわかってきます。
見本市とは文字通り見本の市場であり、その場で消費者に直売するのではありません。
製造メーカーなら販売代理店を探したり、商社なら新製品を探したり、小売業者は店の目玉となる仕入れ商品を探したり、開発者は他社製品の動向を見たり、技術者は最新技術を把握したり、もうありとあらゆることが巻き起こっているといっていいでしょう。
「見本市」は祭典でもありながら競争でもあります。
企業や商品が格付けされる場所でもある。
大相撲の本場所のようなものであもある。
なので、何年ごとに開催されるか、毎年何月頃に開催されるか、といった予定が大事です。
同時に、定まった場所も大事です。
そして、継続した歴史が大事です。
ある産業ジャンルにおいて、ライプツイヒメッセに出展することを目標として、商品開発をしていたり、その機会に他社と情報交換しようと準備しています。
なぜ、ドイツで見本市がここまで盛んであったのか?ということをより理解するために、
ドイツの歴史をもう少し掘り下げていきますと、非常に面白いことがわかります。
ヨーロッパ諸国はローマ帝国の支配が崩れて以降、フランク王国として統一されていました。
そのフランク王国がいくつにも分裂したり合体したりを繰り返しながら、現在の近代国家に統合されていったわけですが、その中でも現在のドイツはイギリス、フランスが主権国家体制を築きつつあった15世紀~16世紀にも多数の領邦国家(ラント)に分裂していました。
現在のドイツ領内が300ものラントに分かれて数百年も推移していただけでなく、独自の通貨発行権や関税徴収権まであったというわけで、ゆるくドイツ王の名目支配は受けていましたが、、、
実質はどこの邦にどういう身分で生まれてくるかによってずいぶん人生が違っていたわけです。
ちょうど、人気漫画ベルセルクの中に出てくるひとつひとつまったく体制が異なる都市のようにです。
このころ日本では応仁の乱から戦国時代です。
つづく
一昨年、新国立競技場問題に取り組んでいるときに、
私は映像作家の大沢さんと知り合いました。
本日、縁があって大沢さんのご祖父さんのアトリエを見学させていただきました。
ゆるい傾斜屋根の下がそのまま吹き抜けとなった空間です。
木造の骨組みの現し方が非常によく練られていて、
具象的かつ木質の素材感が優しいのですが、同時に抽象的で
彫刻的な力強いフレーム表現となっているところに注目しました。
天窓からの明かりが映えています。
壁に残った絵具の後が、もはや抽象絵画のように感じられてきます。
主の居ないアトリエはどこか寂しげな印象ですが、ふと、ここで、
今ベストセラーとなっている村上春樹さんの「騎士団長殺し」の1シーンを思い出し、
まるで、小説の中にいるかのような錯覚にとらわれました。
大沢さんは、子供の頃、このお祖父さんのアトリエ住宅で育ったそうです。
私が大沢さんと知り合った当時、国立競技場の壁画保存の運動に取り組まれていました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/new_stadium/list/CK2015041702000282.html
【新国立競技場問題】国立競技場の壁画11点 一転、保存の可能性
画家の孫、署名活動実る
二〇二〇年東京五輪に向けた国立競技場の建て替えに伴い、行き先が宙に浮いていた十一点のモザイク壁画が新競技場内に移設保存される可能性が出てきた。
事業を進める日本スポーツ振興センター(JSC)が保存を前提に、新競技場内で設置可能な場所の検討を進めていることが分かった。廃棄の危険性から一転、事態を動かした背景には、保存を求めて一人で署名集めを続けた男性がいる。(森本智之)
三月下旬、川崎市の大沢昌史さん(48)は永田町にいた。祖父の昌助(しょうすけ)さん(一九〇三~九七年)は壁画を手掛けた四人の画家の一人。集めた署名を添えて、国会に請願するため議員を訪ね歩いていた。
ロックバンド「ユニコーン」のライブビデオを手掛けるなど本業は映像ディレクター。署名集めも議員に面会するのも初めての経験だが「わらにもすがる思い」と話した。
JSCは昨夏、「最終保存場所は今後検討する」として、移設先を決めないまま十一点を撤去することを公表。いくつかのブロックに切断し、今年二月までに撤去を終えた。現在は国立代々木競技場の屋外の敷地に保存されている。
大沢さんは「当初は『保存する』と聞いて安心したがよく確認すると、いまの状況で受け入れに手を挙げる人がいるとは思えないと不安になった」。
壁画は壁に直接張り付けてあり厚さ四十五センチになる。さらに十一点のうち大きいもので約八メートル四方、重さは七十トンに達する。ブロックに切り分けても移設先まで運搬し復元するにはコストもかかる。バラバラのまま現物も確認できずに引き受ける人がいるかも疑問だった。
祖父の昌助さんは東京美術学校西洋画科を首席で卒業し戦前戦後を通じて活躍した著名画家。都議会議事堂の壁画もその作品だ。国立競技場の十一点のうち「動態」「人と太陽」の二点を手掛けた。
制作に当たり「暗い壁面のために明るいタイルを選んだ」「他の人の作品と調子が狂わないように心を配った」と言葉を残した。一連の壁画は一九六四年の東京五輪に合わせ、日本を代表する画家たちが作った。昌助さんは展示場所の環境や他の作品とのバランスまで考慮していたのだ。
だが「人と太陽」の前にはその後、控室が増築された。「人が一人通れるくらいの隙間しかなく、ホコリだらけになっていた」
昌助さんらの壁画がこうした不遇な状況に置かれる一方で、「勝利の女神像」「野見宿禰(のみのすくね)像」という別の二点の壁画は当初から新国立競技場への移設が決定していた。同じくモニュメントとして移設される聖火台は撤去の様子が恭しく報道された。同じ五輪の“遺産”だが、差は明らかだった。
大沢さんは十一点全てを「勝利の女神像」「野見宿禰像」と一緒に新競技場に移設することを求めてきた。知人だった地元市議らに相談し、署名を添えて国会に請願するというアイデアを得た。国立競技場の建て替え問題のシンポジウムを傍聴するなどして出席者らに助言も求め、集めた署名は千人ほどになった。
当初は積極的とは言い難かったJSCの対応も変わった。新競技場に壁画の設置スペースを作り出せるかどうか検討し、七カ所程度の候補場所が浮上。広報担当者は本紙に「検討を続け、全ての壁画を保存したい」と述べた。保存の全体像は、今秋までにまとまる新競技場の実施設計に織り込まれる見通しという。
おじいちゃん子だったという大沢さん。父も画家で、周囲からは画家になることを期待されていたという。「祖父の作品は大好きですが、別の道に進んだ負い目もあって美術そのものに背を向けてきたところがあった。でも保存に向けた活動の中でモザイク画の魅力を知った。おじいちゃんから『おまえもそろそろ美術に興味を持て』と言われているような気がする」と胸の内を話した。
東京新聞 2015年4月17日
わたくしも新国立競技場問題の渦中に国立の解体工事が進んでしまう!と騒いでいた頃。
このままでは建築といっしょに貴重な芸術作品も損なわれてしまう!という時期でした。
作者の大沢昌助さんとはいったいどういう方なのでしょうか。
「大沢昌助」で画像検索してみてください。
たくさんの大沢さんの作品画像や図録や展覧会の案内が出てきます。
さまざまな色彩や形態を自由奔放に駆使した多様な作品と通り一遍の解説をしたくなりますが、
実際、個々の作品は非常にシンプルです。
かつ、楽しい雰囲気、明るい雰囲気。
選りすぐられ研ぎ澄まされた形態と色彩が、緊張感よりもむしろ心和ませる感じ。
多様なスタイルを駆使しながら各々の作品は書道作品を思わせるミニマルなモチーフ。
で、ありながら、
絵画表現の可能性と領域を延々と拡張し続けた作品群といってもよいでしょう。
大沢昌助の世界
http://osawashosuke.com/aboutso/
1903年(明治36年)9月24日、東京三田綱町に大沢三之助、みよ子の三人兄弟の二男として生まれる。
三之助は建築家辰野金吾の教えをうけ、後に東京美術学校図案科第二部(建築科)主任教授となる。昌助の兄と弟は建築家になった。三之助の妹(いと子)は福沢諭吉の長男一太郎に嫁いだ。
1923年(大正12年)(20歳) 4月、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学び、三年次に藤島武二教室に入る。一級上に猪熊弦一郎、山口長男、荻須高徳、岡田謙三、牛島憲之、小磯良平、一級下に吉井淳二、久保守らがいた。
1928年(昭和3年)(25歳) 東京美術学校西洋画科を首席で卒業。
1932年(昭和7年)(29歳) 世田谷区玉川奥沢町2-666にアトリエを建て、転居。この年、国立音楽学校の一期生でピアニストの北村季美子と結婚する。(季美子の父北村季春は長野県歌「信濃の国」の作曲者)
1933年(昭和8年)(30歳) 大沢昌助油絵個展(日動画廊)開催、福沢一郎から励ましをうける。
1939年(昭和14年)(36歳) この年から児童雑誌『コドモノクニ』に童画を掲載。
1942年(昭和17年)(39歳) 二科賞受賞。
1943年(昭和18年)(40歳) 二科会会員に推挙される。
1945年(昭和20年)(42歳) 4月頃、強制疎開を受け、福沢方に転居。8月、父、三之助死去。この年、二科会再建に会員として参加する。
1946年(昭和21年)(43歳) 武井武雄、初山滋らによる日本童画会の創立に参加。
1954年(昭和29年)(51歳) 多摩美術大学教授となる(1969年まで)。
1961年(昭和36年)(58歳) 兜屋画廊で戦後初個展。
1965年(昭和40年)(62歳) 第4回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞。多摩美術大学正面玄関にモザイク壁画を制作。第8回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品
1973年(昭和48年)(70歳) 大沢昌助・村井正誠・山口長男展(夢土画廊)
1975年(昭和50年)(72歳) 麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展(ギャラリーセゾン)
1978年(昭和53年)(75歳) 大沢昌助・堀文子・建畠覚造展(神奈川県民ギャラリー)開催。
1981年(昭和56年)(78歳) 大沢昌助の世界展(池田二十世紀美術館)開催
1982年(昭和57年)(79歳) 二科会を退会。
1984年(昭和59年)(81歳) 大沢昌助個展(銀座アートセンターホール)開催、「隠喩(赤)」「隠喩(青)」
1991年(平成3年)(88歳) 8月、大沢昌助展(銀座、和光ホール)開催。9月、変身と変貌 大沢昌助展(練馬区立美術館)開催。東京都新都庁舎都議会本会議場前ロビーの大理石に壁面デザイン。
1995年(平成7年)(92歳) 第4回中村彝賞受賞。
1997年(平成9年)5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため自宅で死去。享年93。9月、追悼 大沢昌助展(練馬区立美術館)。
大沢昌助さんのアトリエの様子がわかるTV番組の動画です。
この動画を見ていただくと、大沢さんは巨匠にもかかわらず武張ったところもなく、
気さくかつ、洒脱で、肩肘張った芸術家といったイメージよりも、
大工さんのような俳人のような毎日生活と共に芸術がある、そんな素敵な先生です。
この映像の中にある空間がそのまま現前しておりました。
このアトリエ住宅、築70年近いのですが、
塗装は傷んだとこもありますが、
デザイン的にも空間的にも最近のニューハウスと比較しても、
まったく遜色なくいどころか、むしろ木製建具の味や真鍮金具の風合いが年季を増して、
新建材やビニルクロス、窯業系サイディングといった工場製品ものでは、
決して到達できないであろう深味に達しておりました。
それも、そのはず、この建物の設計者は、
前川国男事務所のチーフアーキテクトの一人だった大沢三郎さん設計なのです。
どこか、前川自邸を感じさせるのもの、そういった理由です。
この自邸も本日限りで人手に渡り、取り壊されてしまうだろう、とのことです。
また、つづきを書きますね。
見本市がドイツ発祥で、ドイツで進化し、ドイツで継承され、
ドイツの伝統になり、ドイツの見本市がブランドになり、
ドイツの一大産業に発展したというお話でした。
なぜ、ブランドが確立されていったかというと、
「同じ場所で長い間」続いてきたからです。
あらゆるブランドといいますか、伝統的な価値や格といったものは皆これを背負っています。
昔から、高校野球は甲子園だったから、高校の野球部は今も夏の甲子園に出たいし、
駅伝は箱根で始まったから、大学の陸上部はお正月の箱根駅伝に出たいのです。
ドイツの見本市ほどではありませんが、近代になって京都で始まった展示会があります。
京都の名店・名匠が会する「洛趣会(らくしゅかい)」
昭和3年(1928)から文化の日とその翌日に開催されてきた歴史ある展示会で、
その特色のひとつが、京都の有名なお寺を会場にすることです。
さらに、この会にはだれでもが参加できるわけではない。
参加する老舗からの招待状を受けた人しか入場できません。
キャッチフレーズは「売り申さず、お賞(ほ)め下され」
この場では展示物は売りません。
しかし、わたくしどもの代々の仕事の力量を見といてください、
そして、覚えといてください、
最高のものとは何かを、
それがお分かりになる方と、
代々に渡って末長くお付き合いをする。
という老舗の思いが込められているというわけです。
今の日本の経済がものづくりの世界が苦境にあえぐひとつの要因、
激安無教養な商品群世界に取り巻かれた結果、陥ってしまっている刹那地獄
なんでも安ければいい、早ければいい、用の足しになればいい、ポイントが増える、
使い捨てればいい、また買えばいい、どこにでもある、だれでも手に入る、
コンビニに置いてある、通販で明日届く、郊外モールに売っている、
さらにコレもお付けしまして、リサイクルショップで0円で引き取ってもらえる、
といった価値観とは対極です。
要は、お客さんの目が肥えてもらわないと、よいものは作っても売れない。
顧客のレベルが上がらなければ供給側の切磋琢磨も生まれないのです。
そして、一定量の製品が売れてくれないと、匠の技も続きません。
業物を支えるだけの普通の良いもの、
それを学んでいる丁稚さんの商品もそれなりに売れる体制がないと、修行も不可能。
つまり、特別な金持ちだけが良いものを知っているという世界では技術も産業も伸びない。
老舗や名店の品を、貴族階級だけのものとしないで、一般庶民や大衆までが商品知識を持ち、ものの良しあしや、品格を見定めることができるようになるまで、安定した社会と庶民の生活水準が向上するまで、ものすごく長い時間を必要とします。
日本はあるときそういった水準に達していたのです。
だから、日本中、東北から九州までどこにいっても、
すごい焼き物があり、すごい漆塗り椀があり、すごい着物があり、すごい金細工があり、
すごい革細工があり、すごい木彫りがあり、すごい金工があり、すごい神社があり、
すごいお寺があり、すごい石垣があり、すごい庭があったんです。
今、そういったものが、戦後に入って生み出せているでしょうか?
地場産業の衰退と村の過疎化
これは、日本だけの話ではなく、ヨーロッパ諸国でも同時に起きていることです。
そして、そうしたマーケットが縮小し続ける中で、新たな価値や評価を意外なところから、見つけてもらえる、そのような各地の地場産業が出会う場所が見本市なのです。
つづく
昨年から続く東京都の中央卸売市場、築地移転豊洲問題。
その状況がお茶の間に知れ渡って1年を経過しようとしていますが、
いまだに、その結論は容易に出せない状況が続いています。
その築地が豊洲に容易に移れないのは、いろいろな多面的要素、多面的理由がありましたが、
私が根本的に問題がある!と判断したのは、そのプランニングです。
早朝に大量の荷物をいかに捌くことができるのか?
その課題に答える建築的プランニングが豊洲には抜け落ちているのではないか?
というものでした。
そんな話題で沸騰中の2016年の夏。
実は、築地市場と同じように、いや築地市場以上に、一定の時間内に大量の情報、
大量の物資を捌いている現場に私は遭遇しました。
それが、テレビ局、テレビバラエティ、報道局の現場でした。
早朝までに番組の情報を取りそろえて出演者のブッキングを終えて、
VTRの編集やらフリップの製作やらを夜中からタイムリーに加工する各局のPさんDさんADさんの姿は、まさに、築地の魚河岸と同じような、時間が勝負、新鮮さが勝負、
セリでどこよりも早くどこよりも情報を落とす、そして視聴者にわかりやすく咀嚼する、切り分ける、加工する、その姿は、TV局は、まったく魚河岸と同じだ!と思いました。
築地い市場の豊洲移転が問題視されだしたそんな時期。
豊洲の平面計画に対する批判を私がおこなっているまさにその現場、番組収録のテレビ局のプランが、
なんだか、拙速な現場にそぐわない、タイムリーに素材加工がおこなえていないカ所がある。
それが大変気になりました。
そのような、仕事を支える意味での局の建築、局のプラン、局の動線計画っていったい全体どうなんだろう?ということが非常に気になり始めた。
それは、なんとか各局のエントランスにたどり着いたものの、
そこから30秒でスタジオ入り出来るケースもあれば、
せっかく必死でたどり着いたのに、そこからさらに10分、15分の時間を要するケースも体験したからなのです。
つまり、テレビ局のプランも魚河岸のプランも非常に似ているのではないか?
という疑問です。
そういった、問題意識から各局のプランニングや建築的機能や建築思想について踏み込んでみたいと思うようになりました。
つづく
築地移転豊洲問題が昨夏より、私が思っていた以上の世間の話題になりました。
話題になっただけではなく、とりあえず移転延期、その後の予定は見えない、という事態。
多くの識者たちが、この築地移転豊洲問題について様々な発言をしています、が。
その多くは、「築地という魚河岸の文化、そしてその公共的意義、市場機能をどうするか?」
という本質的議論ではなく、
「安全の安心が安全の賛成の反対なのだ」とかいう、手前勝手な暴論。
この数ヶ月に見られた、代表的な「豊洲に行けばいいじゃん論者」の意見を徹底的に解説しつつ、
その稚拙な詭弁の数々、無知蒙昧な戯れ言、利権者からの小銭報酬目当ての虚言。
それらの全てを、個人名は当然に名指しのうえで完膚なきまでに、鎧袖一触してやりたいと思います。
で、これまでは築地場内の問題をメインで書いて参りましたが、築地場外はどうなんだ?と。
築地場外は豊洲移転に対してどうお考えなんですか?と、ここんところ
築地周辺を散策してみたわけなんです。
森山ブログファンのみなさま更新がずいぶん空いてしまってすいません。
今、築地本願寺のティーラウンジでこの記事を書いています。
テレビや新聞等でご存じの方々も多いと思いますが、
実はわたくし今度の、
今週末、6月23日告示で7月2日投票日の東京都議会議員選挙の、
立候補予定者となりました。
どこの政党?と聞かれるのですが、、、
無所属です。
「都市を考える会」という政治団体も設立しました。
なんで、そうしたか?
なぜ、思い至ったか?
本年度のマンガ学会の新潟大会にて
『マンガ背景における「線のノイズ」とリアリティ』
いにお作品における電柱と電線を表現した背景の効果について
という、論文を発表予定であったにもかかわらず、
それをキャンセル
そして、波除神社さん前で出馬会見
なぜなんだ?と
その辺りをつまびらかにしておかねばならんだろう、
という事で今この記事を書き始めています。
今、九州では大雨による災害で大変なことになっています。
観測史上最大ともいわれる雨量により各地で氾濫や土砂崩れといった災害が発生しています。
安否が不明の方々もおられ、大変心配しています。
また、救助に携わる自衛隊や消防、警察の方々、
救援活動もどうぞお気をつけていただきたいと思います。
被害に会われた方々、心よりお見舞いを申し上げます。
一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
都議会議員選挙中も訴えていたことですが、
現在の政治的空間には、
都市や都市計画や都市の防災、都市の経済に関する議論がまったく不十分です。
現在、日本人のほぼすべては都市で暮らしています。
東京だけが都市でそれ以外が田舎という意味ではありません。
日本はいわゆるどんな田舎に行っても生活の基盤は都市と同じです。
制度も変わらない、情報も同じ、公共サービスも同等に整備されている。
先人が長い時間をかけてそのようにしたのです。
どんな山奥の道路でも舗装されているとか、電柱や高圧鉄塔や護岸工事が、
景観や風情をそこなっているといった批判もありますが、
これまでの多くの方々の努力によって、日本中が同じ生活水準を維持できるようにした。
土木建築業界は「土建屋」とか呼ばれて、
高度成長期以降の政治の場面ではよく批判の対象にもされてきましたが、
日本は国土も峻嶮であり川の高低差も激しく、台風が押し寄せ、地震も頻発。
海浜は波に削られれ、平地は少なく、寒暖の差も激しく、雨量も雪量もすさまじい。
そのような、自然の猛威に常にさらされてきました。
それらを、何世代にもわたる土木工事や建築工事によって、生活できる範囲を広げてきた。
その生活を守ってきた、国土を守ってきた、常に維持管理がし続けていないと壊れてしまう。
建設、土木、土建業とは、いってみれば、国防産業なのです。
という意味では、日本で国防といえば、まず国土の維持、生活圏の保守が第一義なのです。
つづきはまた書きますね。
ビッグサイト問題に関しまして、
次の様な記事が出ました。
有明→テニスできず、ビッグサイト→商談できず、神宮→高校野球できず
“施設難民”から悲鳴続々 産経ニュース2017.7.14
http://www.sankei.com/premium/news/170714/prm1707140002-n1.html
東京都議選ではほとんど争点として語られることのなかった2020(平成32)年東京五輪・パラリンピックをめぐり、使用する施設の改修工事などによって、これまでの施設利用者が行き場を失い、“迷子”になる恐れが指摘されている。五輪がスポーツ振興の場を奪いかねないという皮肉なケースも。関係者の不安は募るばかりだ。
有明テニスの森公園(東京都江東区)
テニスコートは48面から8面に縮小
「まさか、テニスができなくなる事態もあり得るなんて…。子供は知らせを聞いて、泣いてしまった」
神宮球場(東京都港区)
高校野球、高校総体の会場探しも
来賓の対応スペースなどとして使われるため、五輪開催に合わせて使用できなくなる神宮、神宮第2両球場(新宿区)。
大きな影響を受けそうなのは甲子園出場権をかけて行われる東東京、西東京大会だ。
記事の中では、オリンピック期間における施設利用の調整がキチンと出来ていないことを伝えています。
問題を身近に感じてもらおうという記者さんの工夫から、スポーツ施設の利用者さんの困惑をメインに据えてありますが、
記事中の本命のビッグサイト問題に関して以下のように解説されています。
五輪でメディアセンターとして使用されるため、31年4月から20カ月にわたり利用が制限される「東京ビッグサイト」(江東区)をめぐっても、不安が広がっている。
心配の種は、ビッグサイトで開かれてきた数多くの見本市や各種展示会などの扱いだ。
「展示会は営業や販売促進に人手をかけられない国内の中小企業にとって、多くの来場者と出会い、商談に持ち込める貴重な場だ」と関係者。
展示会がきっかけで商談をつかみ、大きな利益につなげたケースは少なくない。
東京都は約1・5キロ離れた場所に仮設展示場を設ける予定だが、使える面積は大幅に不足するとの声も出ている。
日本展示会協会は32年5月~9月の5カ月間に限っても、
例年出展する4万1千社のうち3万7千社が出展できなくなると試算。
ほぼ全てが中小企業で、約1兆125億円の売り上げを失うと推計している。
さらに、装飾、電気工事、印刷、警備などの展示会支援企業千社が約1134億円の売り上げを失うとも推計している。
問題解決を求める請願署名は現在、14万通を突破したという。
つまり、このビッグサイト問題は、、コミケ会場だから、、という問題をとうに超えていて、
日本の経済全体に未曾有の大被害として波及する大問題だということが、
徐々に一般マスコミにおいても共通の理解と化しつつあるということです。
しかしながら、この理解が、いまだ不十分なのです。
オリンピックメディアセンターっていう施設がどういうものか、
いったいどのように使われ、どの程度の施設規模のものか、
見本市会場をそっちのけでやっていいものか、
正味ののところ、なんぼのもんじゃい、の続きです。
ロンドン五輪のメディアセンターはこんな感じでした。
では、近々の場合、リオ・デ・ジャネイロのときはどんなもんだったんでしょうか?
リオのときもこんなんでした!
ハコ!単純な。
工事中の中も!
鉄骨、ショボ。
こんなんでいいんでしたら、、、
やっぱり、大丈夫。
我らが5街区
キャプションを入れてみました。
▲ 東京オリンピックメディアセンター(豊洲市場計画跡地5街区活用案)
▲ 東京オリンピックメディアセンター(豊洲市場計画跡地5街区活用案)
なんか、っぽい。
それっぽい。
東京五輪メディアセンター、Tokyo Olympic International Broadcasting Center、
と言われても通る、通りまくる感じ。
つづきはまた