そもそもリニアモーターカーがなんで必要なのか?
というところが大層疑問なのです。
この「そもそもなんで必要なのか?」という、間違った事業計画は結構たくさんあって、
その大半が、高度成長期の頃、当時の世相や、戦後からの復興の勢いの中で、
大戦中に惜しくも亡くなってしまった優秀な技術系者の友人、家族、仲間に変わり、
戦前には若年で、日本の技術開発に間に合わなかった技術者の卵たちが奮起して、
戦後の日本を焼け跡から再生しようとした田舎から出て旧帝大に入った官僚たち、
そういった方々と、大戦を生き延びた戦後の政治家等が、計画した。
今後の日本を良くするために思いついた、もしくは当時の国力ではやむを得なく取り入れた、
そんなものが、計画の発端です。
なので、始まりは悪意ではなかったからこそ、むしろ善意でスタートしているからこそ、たちが悪いのです。
それは、時代の変遷の中で、社会事情が変化したり、別の技術革新があって、勘違いもあって、勇み足もあって、思い込みもあって、そのときに想定した未来は来なかったからです。
ならば、そんな計画はすぐにやめればいいじゃないか。
そう思いますよね。
それがですね、当時の進取の精神の新進技術者、研究者、田舎の秀才の官僚達も、ドブ板で頑張った爽やかな青年政治家も、
年代と共に、いつの間にか、誰しもが順番で出世し、偉くなり、権威になる。
いつの間にかそれらの計画に対し、大言壮語し予算をつけ、関係各所の根回しし、気配りし、いつの間にか、徐々にではあったが、その計画にぶら下がる産業構造、その計画を前提にした各地の政策、その計画の検討で飯を食う人々が増えてくる。
いま、やめると、間違いに気づいても、そんな諸関係の複雑に絡みついた、「人的資源的予算的複合的延命計画」といったものに成長してしまいます。
その代表が、たとえば、「高速増殖炉もんじゅ」。
この、もんじゅくんは、
1967年、昭和42年10月2日に、「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」として生まれ、
15年間かけて地元の福井県や敦賀市を含む広範囲の住民、国民とガチャガチャやって、
原子炉産業4社(東芝、日立製作所、富士電機システムズ、三菱重工業)が出資
1983年、昭和58年1月25日に着工。
1991年から試運転開始し試験中の1995年にナトリウム漏えい事故を起こして、
そっから、ず~っと修理、試験、準備、誤作動、修理、試験、故障、修理、試験、燃料漏れ、故障、訓練、試験、故障、虚偽報告、故障、準備、修理、試験、故障、準備、修理、試験、故障、検査、落下、故障、検査、故障、不具合、虚偽報告、試験、、、、
を延々繰り返して、粘りに粘ったあげく、
2016年12月21日、生まれてこの方、日本の社会に国民になんの貢献もなく、いっさい何の役にも立たないままで、とうとう廃炉決定。49歳で死亡宣告されました。しかし、もんじゅくんは廃炉後の燃料も建て屋の処理も非常にやっかいで、死してなお迷惑をかけ通しという計画となってしまいました。
この計画、スタート時はこうだったんですよ。
どうよ!と、いうことでしょう。
総力、前進、推進、結集、発足、画期的、所感表明、記者会見です。
当時の夢の原子力は切手にもなっていました。
そして、日銀総裁も招いて大会も開いています。
燃えていたんでしょう、この人達、日本のために。
この当時のお偉いさんは、みなさん鬼籍に入られているのだと思いますが、、、
ところが、一方その頃すでに、欧米では高速増殖炉はダメだ、、、という意見も出ていた。
ちょっと、やっかいだぞ、、と
そして、昭和42年(1967年)6月5日 には、英国AEAの運転してる2基の原子炉が5月はじめ相ついで事故を起こし、そのうちドーンレイの高速増殖実験炉でナトリウム漏れ事故も起きていました。
その辺の資料は(一般社)日本原子力産業協会のアーカイブに詳しいです。
http://www.jaif.or.jp/data/doc_archives/annual_conference/
前に進めたい、推進、前進、総力戦、そういったことを言ってるときには、正しい情報でも耳に入らないか、ネガティブだから無視を決め込んでしまうのが、世の常です。
ですが、その後どうなったか、、というと、昭和42年の原子力産業新聞の記事どおり、ナトリウムが原因による事故と、ナトリウムが理由による制御不能が多発していったというのが、高速増殖炉もんじゅの正史です。
この、もんじゅくんのケースとなんか似ているんだよ、日本のリニアモーターカー開発史は
切手にもなってるしね。
つづく