築地市場が物流の流れをそのままカタチにしたものである、の続きです。
ただし、それでも、豊洲よりはマシ。
豊洲は根本的に物流とリンクしていない、というのが率直な感想です。
それは、空間のつながり、動線計画の解釈に間違いがあるんじゃないか?という意味からです。
前記事で、油圧回路と電子回路のメタファーを出しましたが、物流に限らず、人が集まる施設、建築の動線計画というのは、ただ単に通れればいいとか、つながっていればいい、というのではダメです。
繋いでありさえすれば機能する、というのは信号や情報が伝達される電子回路的考え方なんですね。
そのような単純な思考では、物体や人が流れる建築的空間では渋滞を起こします。
それだけではありません、間違ったつなぎ方とすると、溢れたり、破裂したりします。
それが、油圧回路なのです。
続きはまた書きますね。
この扇形のプランは鉄道の引き込みのためだったのです。
築地に入ってくる列車は通称「魚河岸列車」と呼ばれていました。
築地に入ってくる列車は通称「魚河岸列車」と呼ばれていました。
貨物列車から降ろされた魚がトロ箱に入って並べられています。
築地“魚河岸列車”52年の歴史に幕
2013.12.18
1987(昭和62)年1月31日、東京・築地の中央卸売市場に52年間、魚や野菜を運んできた“魚河岸列車”がラストランを迎えた。貨物輸送は35年の市場オープンと同時に始まり、最盛期には1日に150両の貨車が出入りし、年間輸送量は50万トンを超えた。しかし、トラック輸送が主流となって取扱量は激減。最終的には広島と下関からアジ、カレイなどが4両の貨車で1日1回運ばれるだけとなっていた。http://goo.gl/MUOrCV
築地市場の配置計画には以上のような経緯があったんですね。
なるほどなっとくです。
その後、国内の物流の多くは鉄道から自動車にとって変わりました。
なるほどなっとくです。
その後、国内の物流の多くは鉄道から自動車にとって変わりました。
昭和40年には30%を占めた鉄道貨物輸送ですが、現在では1%程度ともいわれております。
この鉄道からトラック輸送への変化の中で、築地の現状の配置計画を見ますと、ちょっとうまくいってないんじゃないか。
鉄道時代の物流からトラック物流への転換にちょっと失敗してんじゃないかなあ、という気はします。
ただし、それでも、豊洲よりはマシ。
豊洲は根本的に物流とリンクしていない、というのが率直な感想です。
それは、空間のつながり、動線計画の解釈に間違いがあるんじゃないか?という意味からです。
前記事で、油圧回路と電子回路のメタファーを出しましたが、物流に限らず、人が集まる施設、建築の動線計画というのは、ただ単に通れればいいとか、つながっていればいい、というのではダメです。
繋いでありさえすれば機能する、というのは信号や情報が伝達される電子回路的考え方なんですね。
そのような単純な思考では、物体や人が流れる建築的空間では渋滞を起こします。
それだけではありません、間違ったつなぎ方とすると、溢れたり、破裂したりします。
それが、油圧回路なのです。
続きはまた書きますね。