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谷口吉生さんの京都国立博物館「平成知新館」を見てきたよ2

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京都国立博物館の平常展示館・平成知新館についてです。

谷口吉生さん設計の平常展示館の50年前に森田慶一さんの初代があったというお話でした。
そして、その建物は同時代の建築とはちょっと違う、だいぶ違うぞと、ただしすごく古めかしいのかというとそうでもないんです。


色は白いしコンクリートラーメン構造だし、建物の技術は明らかに現代のものです。
では、なぜ同時代性を感じないのかといいますと
それは、明治に建てられた片山東熊の本館に合わせた、配慮した、親和性を持たせたからに違いありません。

いわば、脇役に徹した、引き立て役に徹した。
むしろ、現代の建築家や建築が見失ってしまってる「脇役力」。

新たに建てられる建築が、元々の景観の中での、空間全体の中での、歴史的連続性の中でのデザインにおける統合的な位置と意味、建築的文脈といったものを意識しているからにほかなりません。

実は、建築というのはまず脇役からなんです。

これを専門家は難しい言葉でコンテクストとかいいます。

建築や美術哲学系の先輩や助教あたりが、さかしらぶって知らない人を脅すときに使う語彙のひとつですが、なんのことはない、前提という意味です。

文脈、脈絡、背景、前後関係とも訳されますが、言語学の言葉ですね。

コミュニケーションを考えたときに会話をお互いが理解するのにも、その状況や背景を互いが了解しておかねば意味が通じなくなる、取り違えてしまう、そのコミュニケーションを成立させるために互いが共有している情報、前提のこといいます。

たとえば次のようなスキット

親方「おい!はち!あれ持って来い!」
はちが金槌(ゲンノウ)を差し出す。
親方「違えよ!絞める方だよ」
はちが片側が尖っている金槌を差し出す。

まず、上記の会話がなんとなく大工さんの会話ってわかるのは、我々になんらかの共有事項があるからなんです。
「親方」「はち」で落語に登場する職人さん?
「金槌」大工?

そのうえでこのスキットの中に入って考えると、二人の会話というか親方の命令は言語的には、「あれ」はなんのことか不明です。
でも、親方とはちの間では「金槌」とわかっている。
「絞める」も通常の意味では首を絞めるとか、、ですが、ここでは木に釘を深く打ち込んで見えなくすることです。
ここには「大工仕事というコンテクスト」が埋まっているから成り立ってんですね。

で、森田慶一先生に戻りますけど、
建築にも当然コンテクストがあります。
なんにもない砂漠の真っただ中に建設されたラスベガスのような特殊事情を除き、むしろあらゆる敷地にはあらかじめ、これまでの事情がある、常にコンテクストがある。

建築はアプリオリにコンテクストありき、なんです。

真っ白な無垢の紙の上に計画が始められると考えている建築家がいたとしたら、それは浅はかな幻想です。

あっ、「アプリオリ」も建築・美術・哲学系の人がかっこつけて人を脅すときによく使われてる言葉ですが、なんのことはない「はじめから」という意味です。

という意味で、森田先生はモダニズム建築ではなく、いえ本当はモダニズム建築なんですが、既存の博物館のルネッサンス様式に親和性を持たせようとして、通常モダニズム建築なら梁と柱を同面にして抽象的フレーム表現にしたりするところを、柱面を二段式に凸凹させて、柱優先とし梁面は引っ込ませて下げたり等々の凹凸でディテールを作り、基段に相当する地面から1mくらいのラインにも梁を通してある。

いわば、カール・フリードリッヒ・シンケルとかの新古典主義みたいなモダニズム手法による古典表現といったような、再々解釈をされているわけです。

陰影を出している凸凹のディテールを全部消してモダニズム処理してみるとあきらかに、その意味がわかるでしょう。



▲柱のエッジが前に出て梁引っ込んでいる(本物)

▲柱のエッジ無くし柱と梁揃え平らに合成(モダニズム変換)


今の建物は大体まっ平らな処理にになっているでしょう。
しかも窓ガラスも壁つらに合わせて凹凸のない陰影のないファサードが多いはずです。

という50年前の森田慶一先生の「コンテクストを読んで親和性を獲得する「脇役力」の事例を見てみたわけですが、

では、谷口さんはどうしているのか、谷口さんにも「脇役力」があるのか。

合わせてきてますね。


ただし、谷口先生は様式に対しては呼応するのではなく、徹底的に引いています。

既存の建物に対しては抽象的な壁になっている、ちょうど能舞台の橋掛かりの羽目板みたいにです。

明治時代の片山東熊先生建築をシテに意識してワキに回っています。
シテというのは仕手とも書きますが、能における主人公のことです。

ただし、昔の正面、西側正面としてみれば!です。


実際、今回の平成知新館は非常に日本らしい意匠になっています。
建築物そのものの前に、風景を西洋式透視図法(パースペクティブ)で見せるのではなく、
物理的距離を超えたバーチャルな奥行を出している。


特に、今回みなさんが写真撮りまくっている東側アプローチにおいては、浮世絵の手法です。


近景、中景、遠景にオブジェクトを配して遠近感をより感じさせています。

上記の絵を見ていただくとわかるように、遠景の水平線と空の靄、真ん中の松、手前の道や屋根という3つの景色をひとつの画面に重ねて奥行や距離が表現されています。

日本の美術手法や概念を表す「真、行、草(しん、ぎょう、そう)」という考え方があります。
華道や作庭だけでなく料理の盛りつけや調度品の取り合わせなど様々なシーンで、美的感性を磨くための指針となる考え方ですね。

真は中心で主役です、行は律儀で補完的で背景的です、草は自由で伸びやかで儚い、といったところですが、捉え方や解釈は状況により曖昧ですが、修行を重ねた名人でも、まったくの素人でも必ず了解され得るところが日本の文化として面白いところです。


ここで真ん中に位置する松の樹ですが、実際には建物を大きく超えるような大樹ではありません。しかしアプローチの景色では真(しん)の役割を果たし、奥の建物のきっちりした背景は行(ぎょう)といってもいいでしょう。
そして手前のヤマモモ?のさわさわとした枝振りが草(そう)です。

受付の庇と壁、一段上げた床でぐるりと切り取った風景は
入場前のアプローチからもうかがい知ることができる。
ここではいわゆる「見越しの松」になっていますよね。


この受付脇のトンネルのような抜けは、葛飾北斎の富嶽三十六景の「尾州不二見原」という作品を想いだしました。




まだまだ谷口さんの建物の解説します。 3につづく


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