新国立競技場の基本設計の着手が遅れているなんてもんじゃなくて、そもそも「フレームワーク設計」という作業内容不明の設計の準備作業に駆り出されたのが日建設計・日本設計・梓設計・アラップジャパンというエース級の設計会社であったということ、
そして日建設計・日本設計・梓設計・アラップジャパンという会社がどういったところなのか、、でした。
日建設計
日建設計(にっけんせっけい)は元々は19世紀末、1900年(明治33年)に住友財閥の建築部門として設立された老舗設計会社です。
住友というと今では銀行とかですか?って感じだと思うんですが、住友グループの発祥は、天正18年ごろ豊臣秀吉が小田原征伐をおこなっているころに京都で銅の精錬を始めたのが開祖といわれております。
その後江戸時代を通じて銅の精錬から銅山経営、そして両替商と幕府御用達の鉱業と金融の一大コンツェルンとなりました。しかし明治維新により幕府側の資産は全部凍結、住友の銅山も銅備蓄も全部差し押さえられて存亡の危機に瀕します。そこを当時の住友番頭広瀬宰平の活躍により新政府においても銅山経営を続けることに成功し近代化に成功します。
太平洋戦争後は財閥解体によりグループの一部が離散しますが、旧住友系列の企業グループ白水会を結成し徐々に住友財閥を再興し現在に至ります。なので日建設計の業務実績には住友系列の建物が多いのです。
住友の部門といいましたが、正確には設計事務所としての日建設計の元の母体は長谷部竹腰事務所といいます。住友工事部を退職した長谷部鋭吉と竹腰健造によって創設されました。
戦前では住友ビルディングや大阪株式取引所などの設計が有名ですが、神宮外苑の絵画館コンペで二位に入選されています。
また戦後の日建設計は林昌二さんのご活躍が有名ですね。
銀座三愛ビル(1962年)
パレスサイドビル(1966年)
新宿NSビル(1982年)
設計会社でも売り上げで300億円以上をあげており、二位のNTTファシリティーズに50億円近い差をつけております。ちなみに売り上げ高でいうと、3位~4位が三菱地所設計と日本設計で日建設計の半分くらいではなかったでしょうか
設計事務所の場合、ほぼ全社非上場ですし、一概に売り上げ比較するわけにもいかないのですが日本一の設計事務所でしょう。
日本設計
日本設計は実は若い会社です。1967年(昭和42年)、国内初の超高層ビルといわれた霞ヶ関ビルの設計者グループが元になって設立されました。
今では信じられないかもしれませんが、私が小学生の頃の学習マンガなどでは、すごい高さや大きさを表すのに「霞ヶ関ビル何個分」とか言われていたんですよ。
創業メンバーの池田武邦さんは建築家としても有名ですが、元帝国海軍士官、巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の乗組員として最近は「艦これ」ファンの間で超有名です。http://www.news-postseven.com/archives/20140117_236730.html
つい先日、「矢矧(やはぎ)」と対面されたそうですね。
ちょっと小泉元首相を優しくしたみたいな感じの雰囲気の先生ですが、大戦末期に戦艦大和とともに帝国海軍最後の決戦、天一号作戦に出撃されています。
「矢矧(やはぎ)」はそのときに大和とともに爆撃を受けて大破沈没しました。
そときに池田先生も大怪我をされたのですが、奇跡的に一命を取りとめ、戦後あらためて建築の道に入られたのです。戦後日本の復興に力を尽くしてこられました。先生は何かの対談で話されていましたが、超高層の実現によって建築が密集する都市にいかに緑地を確保するかということを実現しようとされていたそうです。命をかけて祖国を守ろうとした戦友のためにも、日本の美しい自然環境をいかに保全するかにも心をくだかれてきたそうです。
今の若い建築関係者は日本設計が何か昔からあるサラリーマン組織設計事務所と思い込んでいるようですが、違います。創業46年ですから磯崎新さんや黒川紀章さん菊竹清訓さんの事務所と同時代です。
本来なら池田武邦先生が中心となってマスコミでしゃべったり目立っていくことでヒーロー建築家として振舞えたのに、池田先生がそれをしてないだけなんです。
確かに新宿副都心などを見ますと、現在のタワーマンションの殺風景の足元と違い、初期の高層ビルは一階部分での緑地やエントランスアプローチまでがきちんと造園家の手にまかされており、ゆったりとられていることが多いですね。
池田先生の海軍時代の本も出ています。
海軍時代の写真もありました。前列真ん中が池田池田武邦先生
芦原義信先生や大高正人先生もそうでしたが、戦中派の方々は気合というか気骨が違いますね。
次に梓設計とオブアラップについてですが、、
後ほど加筆します。
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新国立競技場の基本設計が終わらない理由2
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