青天の霹靂(せいてんのへきれき)という言葉があります。
晴れわたった空に突然わきおこる雷鳴という意味ですが、
突然受けた衝撃を意味する慣用句ですね。
数日前に、まさにそれが起こりました。
建築家槇文彦先生が「それでも我々は主張し続ける 新国立競技場案について」
と題し、JIA(日本建築家協会)の会報『JIA MAGAZINE』2014年3-4月号」に1万8千文字、原稿用紙で40枚以上はあろうかという文書を特別寄稿されました。
公開されて誰でも読めますのでぜひお読みになってください。P12~17です。
PDFファイル:『JIA MAGAZINE』2014年3-4月号」
その内容とは
『JIA MAGAZINE』295(2013年8月)において問題提起された、「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」からの半年を振り返られて、なのですが、
この問題に向ける槇先生の真摯さ、そして説得力、
同時になにか決死の覚悟、裂帛の気合といったもの、
真剣さ律儀さ学識に加え、優しさ誠実さ勇気、
それらを総動員したうえで、
あくまで市井の知識人として紳士としての建築家としての、
抑えに抑えた烈火のごとき怒りが、
その切っ先を白銀の錐のように研いで、
揉みに揉み込んだ言葉による一条の矢、
紅蓮の弓矢となって放たれています。
その矢は確実に多くの人の胸に届くことでしょう。
僕のハートには思いっ切り、突き刺さりました。
槇先生は本来そんなことをされる人ではない。
いつも静かだ。
あいかわらずカッコイイ、今も世界中にプロジェクトを抱え、
本当にお若いといっても、御齢85歳でいらっしゃる。
そんな偉い人が、最前線に出張って来られている。
どうなんだ!諸氏たち。
(諸氏というのは新国立競技場コンペの審査員の一人である内藤廣さんが、槇さんと問題提起された建築家の先生やJIAのメンバーたちを十把一絡げにして呼びつけたことに起因する呼称のことです。)
槇文彦さんって人のことは一般にはあまり知られていないと思うんです。
そこは谷口吉生さんと同様にマスコミにあまり出ることが少ない、自治ネタとかでインタビューされることもなく建築とか都市についてしか語らない、というか語りよりも書籍とか論文でしか出てこられません。
肉声を聞いたことがある人も稀だったでしょう、今回までは。
正直、私もほとんど接点ありません。
唯一あるとすると10年前のSDレビューの受賞式のときくらい。
しかも、僕は会釈しただけという程度なので声を聞いたことはなかった。
なので、槇文彦さんについて解説しておきますと、
槇さんのおじいさんが竹中工務店の会長竹中藤右衛門です。
慶応から東大に進まれまして、丹下健三先生のところに学びハーバードに留学。
ホセ・ルイ・セルトのスタジオに学び、アメリカのSOMという設計組織で実務をつまれて帰国、東大で教鞭をとるかたわら設計事務所を開設されています。
帰国早々、32歳のときに名古屋大学豊田講堂の設計でさっさと日本建築学会賞をお取りになられ、以降は50年以上も第一線で設計活動されています。
名古屋大学豊田講堂
当時の建築デザインのトレンドである構造表現のブルータリズムと空間単位の集積であるメタボリズムのエッセンスを捉えながら、華奢に軽快に品良くまとめられています。
みなさんがよく知ってる建物とすれば、40年以上も計画が続いている代官山ヒルサイドテラスでしょう。
これは地主の朝倉さんの土地活用という経済的命題と代官山の商業文化ゾーンを形成したという意味と、30年以上の永きにわたる全体計画が破綻無く連続されていったということで画期的な建築です。
僕は槇事務所ご出身の遠藤精一先生の膜構造建築を20代の後半、2年ほどお手伝いしてたのでここに通っていましたが、20年前の当時も今も変わりません。
てことは今後20年も変わらないんじゃないでしょうか。
昭和44年のデザインと平成11年のデザインがつながっている、各時代ごとのデザイン潮流も押さえながら、ということ自体が奇跡に近いです。
今見ても、どれが昭和44年部分かわからないと思います。
機能、技術、経済、デザイン、ディテール、街並み形成、商業活性化、ビジネス用途、居住環境、景観、歴史、といった全ての設問に100点を取ったものです。
当然、時代の議論の中心であった個と公、ミクロな人文学的要素とマクロな都市の構成要素の架橋という課題も見事に昇華されています。
青山通りのスパイラルもみなさんよくご存知でしょう。
写真では青山通りを挟んで正面の幾何学的な構成がほんの少し浮かせたり、振られたり、離したりで、最大限の視覚効果を生んでいますが、この建物の真骨頂は歩行者からの目線を意識したところです。1階のセットバック部分が楽しい、誰でも入ってみたくなるような建築です。
ここではポストモダン的な記号表現や断片の集積といった脱構築的理論を破綻なく収めながら商業建築と文化施設が立体的に縦方向に融合するという画期的な解決策で青山通りの魅力をさらに高めました。
他にもいっぱい著名な建築があります。
そのすべて、特に上記で紹介した建築にも言えるのですが、槇さんの建築は、人間の目線、地上1メートル20~50センチからの建築物の認識をとても大事にされている。
だから怖くない。
そして何か誘われているような、歓迎されているような、ちょっと背伸びして入ってみようかな、自分が少しおしゃれに知的に素敵になれるような気がする、建物そのものよりそこに関わる人自身が魅力的になるように設計デザインしてあることなんです。
スパイラルで働いているとか、ヒルサイドで個展やったとか、自慢したくなる言いたくなるようなところです。
これ、モダニズムの文脈でデザインするのは非常に難しいことなんです。
よくある新奇のクールなデザイン建物はどこか入りにくい、カッコイイ美容院はちょっと怖い、クールすぎてまったく落ち着かないレストランやカフェが多いでしょう。それは、あまりに空間が単純すぎるからです。色が少ないからです。照明がまぶしいからです。壁や床に凸凹がないからなんです。
空間があまりにノイジーなのも落ち着かないんですが、
まったく抽象化したアノニマスな空間もっと落ち着かないですよね。
一刻も早く外に出たくなる。
その辺を槇さんは非常によくわかってらっしゃるなあ、と常々思ってました。
なんで、白とか銀とグレーしかないのになぜそれが実現できているのだろうと思いますが、一番の特徴は槇さんの建築は前に前に押してくるのではなく、街の背景の側になろうとしていることでしょうね。
槇さんはこの50年間、常に日本の現代建築の先頭グループに居ました。
でも、先頭を走りませんでした。常に一歩引いてた。
メタボリズムでは黒川紀章さんや大高正人さんが先頭、ポストモダンでも磯崎新さんとか原広司さんが先頭、ハイテク建築でもロジャースやフォスターが、ミニマリズムでも安藤忠雄さんや妹島和世さんが先頭。
そして、大言壮語を吐かない。
建築家が本来やるべきこと、出来ること以外のことまで、
社会改革とか文化全般の評価まで語ろうとする人がいますが、
槇さんはやらなかった。
現実の建築物の評価以上のものは求めなかった。
タレントや政治家、身近な芸術家や文化人ともつるまなかった。
そんな槇文彦さんが、この新国立競技場問題では先頭。
3歩も4歩も前に出ているんだよ。
そんなこと槇さん個人は全然やる必要ないくらい偉いんだ。
槇さんにはなんのメリットもないんだよ。
誰のためにやってくれているかわかってんのか。
これからの人たちのためになんだぞ。
槇さんはそういう、もったいつけた事は言わないんだ。
粋だから。
だから槇さんよりも前に出ろ!みんな。
槇さんに矢が当たらないように矢面に立て。
黄母衣衆、赤母衣衆となって先を駆けろ。
今が切所ぞ。
黄母衣衆、赤母衣衆といいのは戦国合戦で大将の周囲を固める馬廻りのこと。敵の攻撃が大将に向かわないよう、狙いが自分の方に向くように目立つ格好をして前を突撃する役のこと。
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東京の森⑦だからこそ主張し続けよう
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