内藤文書の解題1
どうも文字数が多すぎてうまく保存できないので 2.の解説を分けました。 つづきです。 2.主文 発言主体の明示 以下に述べることは、現在の全般的な状況に対するわたし個人の見解と危惧です。 触れることができる範囲のことと自分の考えを述べ、以後、質問にお答えすることは控えたいと思っています。 構文2-1 コンペに対する主観 設計競技の手続きに関して、いくつか厳しい指摘がなされていますが、短い時間の中での窮余の策であったことを考えれば、充分とはとても言えないまでも、まあまあだったのではないかと思っています。 ↓原因の一部を他社に仮託し勝手に反省 世論喚起を急ぐあまり、広告代理店による誤解を招くような事前の情報発信があったことは反省点です。 構文2-2 設計競技全体の在り方に関しては、類似の案件が生じた場合の対応として、今後に活かす議論とすべきです。 今回の事例を土台に、より良いものに改善されていくべき事柄だと思います。 構文2-3 警告1 ストローマン導入 不備を指弾する声もありますが、普段からこの仕組みを議論の俎上に上げてこなかった自省の弁から始めるべきです。 構文2-4 論点の飛躍1 そうでなければ、設計競技なんていう面倒くさいことはやめておこう、ということになりがちだからです。 構文2-5 論点の飛躍2と拡張1 これは景観の議論にも通じることです。景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、赤白の縞々の住宅が出来るというので話題になったことは記憶に新しいところです。 構文2-5 論点の回避。倒置法 普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。常日頃が大切です。 構文2-7 対人論証。警告2 署名運動を繰り広げている建築家たちは、常日頃から神宮の景観を議論し、それほどまでに愛していたのでしょうか。絵画館の建物をそれほど愛していたのでしょうか。絵画館に飾られている絵画を一度でも見たことがあるのでしょうか。
「なってしまいがちだから」という接尾部分があるために、 この部分です。
「まず反省しろ!」です。 ええっえーっ!
凄い、、、何かの御宣託のようです。 首領からのお言葉を頂戴しちゃってます。 これが、内藤文書の、わけわからんしエラそうに聞こえる理由です。 景観についての議論つまりは今一番問題視されている新国立競技場の大きさとか街並みにおける影響の問題についての疑義ですが、 ここでは、通常の文章の流れをいったんバラして逆に組み替えるという技をつかってあります。 これは景観の議論にも通じることです。景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、赤白の縞々の住宅が出来るというので話題になったことは記憶に新しいところです。普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。常日頃が大切です。 このメチャクチャな語句の順番を元に戻すと 常日頃が大切です。普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。赤白の縞々の住宅が出来るというので話題になったことは記憶に新しいところです。景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、これは(前項は)景観の議論にも通じることです。 梅津邸の話題を入れることで世間一般に媚びようとしていますが、梅津邸の文章は新国立競技場に関係のない部分なので外します。 常日頃が大切です。普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、これは(前項は)景観の議論にも通じることです 普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。前項は景観の議論にも通じることです ちょっと意味がわかってきました。「議論は後追いになるばかり」はストローマンです。取ります。 「常日頃から景観の議論をしていない諸氏は、前項同様である。」 前項同様といえば、コンペの議論をしていない諸氏は、、、でしたね。 結論 「常日頃から議論していない諸氏は議論する資格はない!」 この文章もトートロジー、循環論証で詭弁でした。 さあ、次はとび技や蹴り技ほど目立ちませんが、キメ技としてのサブミッションというグランドテクニックです。この2-7は内藤文書の中でもけっこう綺麗に詭弁の技を決めて、愛とか使ってドヤっているなかなかの見せ場なんです。 これは、、まったく因果律のない言説をくっつけて用いているパターンで、ストローマン同様、内藤文書には何度も何度も登場するのですが、 媒概念曖昧の虚偽です。 のAが文脈によって違った機能をもっている場合です。 それをうまく応用して逆三段論法にしてあり、 ちょっとした蟻地獄に似たトラップが仕掛けてあります。 文章を分けてみます。 署名運動を繰り広げている建築家たちは、常日頃から神宮の景観を議論し、それほどまでに愛していたのでしょうか。 絵画館の建物をそれほど愛していたのでしょうか。 絵画館に飾られている絵画を一度でも見たことがあるのでしょうか。 1.諸氏は神宮の景観を愛していたか? 2.諸氏はその中でも絵画館を愛していたか? 3.諸氏は絵画館の絵画を見たことがないだろう。 ここではけっこうバクチを打っているんですが、 3番目の文がひっかけというか落とし穴のつもりのようです。 これは、諸氏が(どちらかというとリベラル派の現代的なデザイナーゆえ)絵画館の中に飾ってある御維新から明治天皇の事跡を描いた日本画なぞ見ているはずがないという確信から 神宮の景観を愛していたのなら、絵画館も愛しているはずだし、当然中に収蔵されている絵画も見たことがあるよな? えっ?絵画見たことがない?ホーホッホホホ、じゃあおぬしには、2.を語る資格もないし、1.も語る資格はないのじゃよ。 という、流れに持ち込んで絵画館前の歴史的景観を問題視している意見を封殺したつもりでいるんですね。 これ逆だと効き目がないんです。 絵画館の絵をみたことは→そういえばないかも 外苑の絵画館は好きか→そうだね、いやそれほどでも 外苑全体の景観は好きか→好きですよ、だから外苑の景観の議論しますよ 当然、私は絵画館の絵画を見たことがありますから、 このサブミッションにはひっかからないんですが、 若者とか公園利用としての経験しかない人は、 「そうかあ、そこまで愛していないと議論しちゃいけないのか、、」 と思ってしまうように誘導しています。 内藤文書の前半の主題は、 前文で本人が述べている このままでは議論が深まらないという正論に反して、 「諸氏は議論する資格はない!」 「とにかく、お前らに議論する資格はない!」 「議論なんかさせるもんか!」 「議論したくないんだよ!」 という必死の叫びだったんです。
内藤文書の解題2
内藤文書の解題3
内藤文書の解題4
2-2では、「よりよきものに改善していくべき」と正論を吐いていますが、これは倒置法であり、今議論するべきコンペのあり方について、「今後に活かすべき」ことがらであると、あくまで、当事者意識を欠いたままの、俯瞰的位置からです。
で、いよいよ最初の恫喝に移ります。
2-3→2-7までの流れは実に見事な詭弁のお手本です。
まず、諸氏たちは(こちらに言う前に)自省の弁から始めるべきであり、
そうでなければ設計競技なんていう面倒くさいことはやめておこうということになりがちだからです。
これは景観の議論にも通じることであり、景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、赤白の縞々の住宅が出来るというので話題になったことは記憶に新しいところです。
この文章は本当に面白いんですが、もう少しわかりやすくします。
コンペについて議論するためにはこれまでに議論したことがないとダメで、まず今まで議論をしてこなかったことを反省しなさい、そうでなければコンペのように面倒くさいことはやめておこうということになりがちだからです。
まだ、意味が読み取れませんよね。
なぜなら、ここにはトートロジーが埋め込まれてあり、なおかつ、本来ならくっつかない2つの文章をつなげてあるからです。
もちろん得意の曖昧迷彩も施してあります。
どこがおかしいかというと
「自省の弁から始めるべきであり、そうでなければ設計競技なんて」
をつないでいる「そうでなければ」の前後に因果律がないところです。
因果律というのは、AがあるからBがある、という結びつきのことです。
「AであるべきであるBでなければCになってしまうから」と機械的につながってしまい読み取ろうとしても意味がわからなくなってしまうのです。
この強力接着剤みたいな妙な接続詞を取ってみましょう。
コンペについて議論するためにはこれまでに議論したことがないとダメである。
まず今まで議論をしてこなかったことを反省しなさい。
コンペのように面倒くさいことはやめておこうということになる。
まだ、変な感じですよね。
その原因は、トートロジーとは循環論証という詭弁の手法なんですが、
前提が結論の根拠となり、結論が前提の根拠となるような言説
議論するためにはこれまでに議論したことがないとダメ
これでは諸氏は生まれてから死ぬまで議論ができなくなりますね。
なので前文からトートロジーを外します。
残るのは、
で、後ろの文章は
「コンペのように面倒くさいことはやめておこうということになる」
です。
「面倒くさい」もヒドイ物言いなんですが、
この文章内に「めんどくさい」は何度か登場してきますが、
後半でも非常に目立つシーンで使われてきます。
これは、最初の「食傷気味」と呼応強調関係にあるのがミソです。
「やめておこうということになる」も引っ張りまくった言い回しですので
「やらなくなくなる」と単純化できるでしょう。
そのニュアンスも外して、整理すると
原文
「不備を指弾する声もありますが、普段からこの仕組みを議論の俎上に上げてこなかった自省の弁から始めるべきです。
そうでなければ、設計競技なんていう面倒くさいことはやめておこう、ということになりがちだからです。」
という、もやもや文書の正体は以下です。
「諸氏らよ、まず反省しろ。(でないと)今後コンペ制度はなくなるであろう。」
しかも、このご宣託には因果律がない。
このままじゃ、なんか、終わらないな。
つぎいきます。
常日頃が大切です、と普段から~、と景観を公共、、、意識のないところは、まったく同じ文意がダブっていますね。整理してみましょう。
原文
署名運動を繰り広げている建築家たちは、常日頃から神宮の景観を議論し、それほどまでに愛していたのでしょうか。絵画館の建物をそれほど愛していたのでしょうか。絵画館に飾られている絵画を一度でも見たことがあるのでしょうか。
媒概念曖昧の虚偽とは、AはBである。CはAであるよってBはCである。
↧
内藤文書の解題5
↧