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非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書) http://amzn.to/1nPnacV
ただ、近くに本屋さんがなくてしかたなくアマゾンの方はしょうがないのですが、
できれば、街の本屋さんで買ってください。
また、本屋さんイベント等の企画がございましたらどこへなりとも出向きますので、
ご遠慮なくおっしゃってくださいませ
<目次>
第1章 [非常識なコンペ] 新国立競技場は「よくある話」
第2章 [非常識な建築史] 建築はなぜ「どや顔」をするようになったか
第3章 [非常識な建築家] オリジナルでなければ建築ではない!?
第4章 [非常識な建設現場] ゼネコンという名の総合商社
第5章 [非常識な建築論] 建築業界にも「常識」はある
はじめに
2013年9月、2020年の夏季オリンピックの開催地が東京に決まったというニュースが私たちのもとにもたらされました。同時に、そのメイン会場として、イラク出身の建築家・ザハ・ハディド氏が設計した新国立競技場のイメージ画像が何度も紹介されました。
私は嫌な予感を覚えました。
さかのぼること1年前、新国立競技場の改築に向けた国際デザイン・コンクールが開催され、ザハ・ハディド氏の案が最優秀賞に選ばれたことは知っていました。しかし当時は、東日本大震災からの復興がようやく緒に就いたばかりで、あの壮大で滑稽な案がそのまま建設されることはないだろうと「楽観視」していました。しかし、その壮大な計画は静かに着実に進行していたのです。
「このままマズイことにならなければよいが……」
嫌な予感を覚えたのは、新国立競技場の設計コンペを巡る一連の流れが、私がこれまで目にした日本全国の公共施設に関する設計コンペの失敗例とあまりに酷似していたからです。過大な要求を積み上げ、拙速に企画されたとしか思えない設計コンペの募集要項、そこに群がる斬新で奇抜な建物をつくりたがる建築家たち、彼らの案を狭い視野でしか選り分けることのできない公共意識の低い審査委員たち。結果、せっかくの一大プロジェクトも最終的には誰も喜ばない、一過性のお祭り騒ぎに終わる例を、私は数多く見てきました。あとに残るのは桁外れの維持費と、地元自治体を悩ます財政問題です。
そして予想した通り、新国立競技場は同じ道を歩んでいきました。幸い、ザハ氏の案はぎりぎりの段階で白紙撤回されましたが、その後も決して予断を許さない状況が続いています。本書執筆の時点でも、まだ火種はくすぶったままです。新国立競技場に関するこれら一連の問題を、本書では「新国立競技場問題」と呼ぶことにしましょう。世間一般には、3000億円にものぼろうかという過大な建設費に非難が集中しましたが、新国立競技場問題の本質は、実はもっと根深いところにあります。そこには建築業界特有の、一般の感覚ではにわかに理解しがたい「非常識」な論理がいくつもまかり通っているのです。
また、つい最近ですが、新国立競技場問題に続き、2015年にいわゆる「傾斜マンション問題」が明るみに出ました。税金のむだ遣いという点で非難を集めた新国立競技場と違い、こちらは私たちの安心・安全な住環境を脅かす「事件」として、連日日本中の注目を集めました。
「建築業界全体が、何か大きな問題を抱えているのではないか」。いま、多くの国民がそんな不安な思いにさいなまれているような気がします。
私は常々、建築家には三つのタイプがあると考えています。
ひとつは、建築物を設計する知識・技術をもつ「建築士」。一般的な住宅、公共施設、商業ビルなどの建物を設計する人です。独立開業している人、建設会社やアトリエに所属している人など雇用形態はさまざまですが、いずれも高い倍率を勝ち抜いて一級建築士や二級建築士という国家試験を突破した人たちです。
二つめは「建築家」。欧米諸国と日本では建築家の定義が異なります。欧米諸国の建築家は日本の建築家より業務の幅が広く、建築だけでなく広く社会問題や文化の発展といった事業に包括的に取り組む人を差します。教会や王宮といった時の権力者や為政者たちの施設建設を背景に、長い歴史を通じて確立されてきた伝統的な職能のひとつです。建築家として身を立てるまでは狭き門で、社会的地位も非常に高い職種といえます。
日本は明治維新以降、そのような欧米型の建築家像を目指してきました。しかし、未だに建築家の定義ははっきりしません。建築設計業務を行ううえでは建築士の資格が必要ですが、彼らがみな「建築家」であるかどうかは分かりません。取り組んできた業務内容の成否に応じて「自称」したり、日本建築家協会に所属することでお墨付きを得ているというのが実情です。大学教授を務めたり、建築系のメディアでもてはやされたり、設計した建物が建築賞を受賞したりして、その名が広く知られた人はおおむね「建築家」を自称しているようです。
そして三つめのタイプが、周囲の環境とまったく調和しない、それ単体での成立を目指す彫刻のような建物を設計する「表現建築家」です(表現建築家とは私の造語です)。ひとつの建物には、いくつもの価値が内包されます(明るい、暖かい、涼しい、広い、格好良い、新しい、楽しいなど)。
住宅であればそこに住む家族の数だけ、公共施設であればそこを利用する人の数だけ、さまざまな価値基準で建物に接します。しかし表現建築家は、格好良い、新しいといった見た目の価値だけに走っていきます。そして彼らが設計する建物は、例外なく威圧的な「どや顔」をしています。どや顔をした建築(略して「どや建築」)を次々に生みだし、都市を、地方を、日本社会をあらぬ方向に導こうとするのが表現建築家です。
私が、建築業界全体に蔓延しつつある「どや建築という病」に気づいたのは、いまから十数年前のことです。それ以前は、たまには変わったデザインの建築があっても面白いだろうし、建物の依頼主が満足しているならそれはそれでありだろう、と考える程度でした。ところが、全国の地方都市で街づくりの仕事にかかわるようになると、特に公共施設における「どや建築」の建設が、たんなる建築デザインの問題を超えて、自治体の財政や地域住民の生活環境を大きく脅かしている実態を目の当たりにするようになりました。
「どや建築という病」は、あくまで私個人の頭のなかだけでくすぶっていたテーマでした。しかし、「どや建築」という視点でいまの建築業界を分析すると、新国立競技場問題も含め、そこに巣食っている数々の問題が驚くほどスルスルと解けていきました。本書は、現在の建築業界から数々の「非常識」が生みだされる原因を、「どや建築」をはじめとするいくつかの視点で検証し、一般の読者にもご理解いただけるように書いたものです。
今後マイホームの購入を考えている人、愛着のあるわが街に、快適に利用でき誇りがもてるような公共施設が建ってほしいと願っている人。みなそれぞれに理想とする住環境、生活環境があるでしょう。それは、この国に生きるすべての人たちが、建築業界の「非常識」に気づき、みずから声をあげることで建築業界内部にいる人たちの意識を変えられれば手に入れられるはずです。
この世に依頼主のいない建築というものは存在しません。誰も使わない建築、何の役にも立たない建築は必要ありません。建てる側より、依頼する側の意識が変われば、建築を取り巻くこの社会の環境はもっと良くなっていくはずです。「建築エコノミスト」として活動する私の経験と見解が、その一助になれば幸いです。
以上の「どや建築」のまえがきを公開したら早速、
早とちりさんから「森山ヒドい、僕たち私たちの素晴らし建築の世界を冒涜するのか!」といった連絡があったので補足しておきますが、、
まずヒドいことしてるのは俺じゃない、ちょと田舎に行けば、自分達の実家に帰って冷静にあたりを見回せば、「どや建築」はいくらでも見つかるだろう。次に素晴らしい建築の世界を冒涜してるのは奴ら自身であるということ。
また、私が批判しているのは、建築家全体ではないということ。同時に、全ての建築が素晴らしいとは限らないということ。その中の一部には批判されるべき傾向がある!と言っている。
だから、俺に文句言っても無駄。
そもそも俺の発言に怒りや痛みを感じるということは、思い当たるフシがあるということ、その自覚があるということだ。
俺に文句言ってる暇があるなら、自分らで「こんなに素晴らしい建築がありますよ」とか「建築作品世界が素晴らしい理由」とか「日本の文化に貢献する建築作品たち」とかの本をどしどし書いて世に問えば良いだけだ。
それに、公開したのはまだまえがきに過ぎない、慌てふためくな!と言っておく