新国立競技場のモメ事で、神宮外苑ばかりが話題になっているわけですが、東京のかつての郊外、今ではもはや都心と言われる駒沢にもオリンピック競技場があります。
しかも、外苑よりも広い。
外苑はこんな感じ
そして駒沢です。
しかも!この駒沢競技場、特撮のメッカです。
ウルトラQ、仮面ライダー、キカイダー、がんばれロボコン、ウルトラマンタロウ等々昭和の特撮ヒーローもので何度となく登場しています。
それもそのはず、この駒沢運動公園はですね、緑溢れる公園というよりも、どこか宇宙的なSFチックな香りが漂っている。
南米のブラジリアみたいな未来感覚でスペイシーな空間なんです。
建築物単体だけでなく全体のランドスケープデザインが秀逸です。
メインの陸上競技場のデザインなのですが、曲面が巨大な爪のようにも花弁のようにも見えますが、このキャノピー(覆い)が宇宙船のような印象を生み出しています。
そして、この五重の塔のようにも、宇宙と交信しつつレーザー光を発しそうなタワー
この見え方だけで、実にワクワク感をそそるのですが、実はこれらのデザインアイテムは人の目線からの見え方を的確に捉え、実に上手くコントロールして出来上がっているのです。
施設を俯瞰でみるとわかりますが、全体の配置計画では競技場のキャノピー(覆い)も全体を覆っているわけではないし、タワーも視線で感じるほど巨大なものでもない。
これはですね。
伽藍配置です。
仏教というのはインドでは宗教というよりも、思索によって宇宙の原理を極めようというような大学や研究所みたいなところでしたから、中庭を中心に僧房が取り囲むという今で言う大学のキャンパスみたいな構成をしていたんですね。
その建築形式を精舎といいます。
それが日本に伝来するに及んで、精舎の核施設部分を抜き出して先鋭化し抽象化した結果、日本独特の伽藍配置が生まれました。
回廊の中に、整然とキチっと塔と金堂を配置してあるわけですが、この配置が結構、微妙でして必ずしも中心軸を通してなかったりします。
法隆寺の配置はこうなっています。
なんか、ニコニコ動画みたいですが
俯瞰の写真です。
この伽藍配置の効果ですが、この回廊に囲まれた内部に入ると、仏教を解さない人であっても、ここが一つの現世から隔絶された別種の空間なんだということがひしひしと伝わってきますよね。
と、同時に金堂と塔の存在は、建物というよりもこの回廊内に配置された彫刻のような、いわば建物が二尊の仏像のようでもあり、オブジェクトと化しておりますが、この伽藍空間の中心めいたものはありません。
むしろ、何者かの不在を表現し、何者かの降臨を待っているかのようでもあります。
そのような、いわば建築物の配置の妙技。
空間の空白を最大限に活用しながら、ひとつの清廉潔白な白州の広場みたいなものを、駒沢競技場の設計デザインでは現出させてあります。
しかも、そのときに身振りの大げさな建築物でも、異様な形式を持った異物でもない、むしろほんの少し、ごく一部を触っているだけにもかかわらず、駒沢競技場にはどこか異界の、永遠に未来を待ち続けているような、独特のSF的な雰囲気を醸し出している。
これらの施設を設計した建築家は芦原義信さんです。
一見、ホンワカした優しそうな小学校の校長先生みたいな雰囲気ですが、もっの凄くシャープで理知的な建築デザインをされる方です。
一方、堂々と建築の美しさ、街並みの美しさ、について語る。
プロポーションについて語る。
そして、それを会得するにはどうすればいいか、を平易な言葉で論理的にみんなに教えてくれる、そんな先生ですね。
有名なところでは銀座ソニービルがあります。
芦原先生は建築や街並みの美的価値について大いに語られていますが、単体の建築のみがそれらの中で、独善的振る舞いをとることを潔しとしません。
同時にいわゆる現代美術のコンセプチャルな詭弁的解釈、建築家内々だけの詭弁的解釈を建築には持ち込まれませんでした。
そのため、この20年ほどは建築教育や建築雑誌上では、その存在感が忘れられている感があります。
若手建築家の知識上からもスッポリと抜け落ちている。
よく、戦後の日本の建築家とその系譜を語る建築評論家や雑誌がありますが、芦原先生に関してはその系譜からももれていたりする。
ところが!ですね。
芦原先生は、帝大→海軍→坂倉事務所→マルセル・ブロイヤーの事務所を遍歴されて、独立されたという輝かしい経歴をお持ちです。
そして、大学、様々な種類の建物を設計されていますが、高速道路のSA等の社会資本系のお仕事も数多くあり、知らず知らず芦原先生設計の建物の前を通り過ぎていた!なんてことがよくあるはずです。
代表的なお仕事はこちらの芦原事務所のHPに掲載されていますね。
http://www.ashihara.jp/da/html/work0101j.htm
戦後の日本建築界の中で、その土台を築かれたような方です。
特に!戦後復興のただ中でモダン建築と日本の伝統をいかに融合していくか、もしくは日本建築の精神文化を現代の技術でいかに表現可能か、に腐心した方ですね。
特に1967年のモントリオール万博日本館にその意気がよく現れています。
コンクリーとの梁を校倉状に積み上げて、高床式にしたパビリオンです。
無骨でありながら、コンクリートしてはギリギリの断面による横ラインだけで構成した抽象的造形ですね。
現代の建築家では北京の鳥の巣を設計したヘルゾーグ&ムーロンのように、建築固有の構成方法から離脱して、三次元のドライな立体操作だけで構築しようという現代美術やミニマルアートに通じるものですが、
芦原先生の場合は、そのような無国籍で実験的なものではありません。
これは正倉院ですね。
校倉造りです。
以上のように
芦原先生は、高度成長期の日本の社会が置き去りにしてしまいそうであった「建築や街並みの美学」に、「日本らしさ」をどう接ぎ木していくか
を真摯に考えておられた。
丹下健三氏や、黒川紀章氏のような派手な言動こそ控えられいたためか、いわゆるマスコミの寵児にはならなかった人ですが、戦後の日本の建築界で連投に次ぐ連投、先発から抑えまで大車輪のごとく活躍された、もう一人のエースだったのです。
その先生が設計したのが、駒沢競技場なんです。