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Channel: 建築エコノミスト 森山高至「土建国防論Blog」Powered by Ameba
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真国立競技場へ3

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「新国立競技場、950億円で造れる 東京五輪へ“格安”案」という報道について

建築界では様々な反応があったようです。
いわく

「それはいい」
「いや、デザイナーをないがしろだ」
「安ければいいのか」
「中身はどうなんだ」
云々

特に目立った、といいましても所詮建築設計者連中の集まりですから、専門的なマイナーな世界、井戸の中の蛙たちのつぶやきなのですが、目だった論調としては、

「格安」って言うな!のようです。

これには二つの意味がありまして、他のスタジアムと比較してみても決して格安なんかではない!

大分ビックアイ。収容4万人→250億円 
新潟ビックスワン。収容4万人→300億円 
神戸ウイングスタジアム。収容4万人→230億円 
ユアテック仙台。収容2万人→130億円 
ガンバ新スタジアム。収容4万人→140億円

国内でも格安どころか、「格高」。

世界で比較してみると
「格高」でみれば

ウェンブリースタジアム。収容9万人→1500億円
ヤンキーススタジアム。収容5万人→1400億円
オリンピックスタジアム・モントリオール。収容6万人→1350億円
マディソンスクエアガーデン。収容2万人→1000億円

上位5位くらいにはいってしまう勢いです。

だから、「格安」って言うな!というご意見と同時に散見されたのが、建築様に「格安」とかいう下世話な語彙を使うな!というものでした。

え~っと、「格安じゃないじゃないか!」は理解できるのですが、
「建築という尊い高尚なものに「格安」とかいう、安売りの酒販チェーン店みたいな語彙を使って欲しくない」という建築家諸氏のご意見には、
まだあんたらそんな意識でいるのかよ、、と呆れました。

結論。
950億円というのは決して格安ではない。

それ以前のザハデザインの3000億円でも不可能な計画に続き、ダウングレード版における1700億円~2100億円でも不可能な計画があったので、それらと比較してコストダウンになっているというだけです。

そして、もう一点分かりにくかったのが、謎の民間会社が提案したといわれるスタジアム座席数の推移。

最初は
ラグビー?とオリンピックで8万席(仮設が5万5000席)を600億円で建設する。
その後
5万5000席を撤去して、(2万5000席は残し)
2万5000席の席を350億円かけて追加して
5万席のスタジアムにする。

という流れのようです。

う~ん、作って壊してまた作る。
そしたら600億円が950億円かあ、、
そんなん、アリなんでしょうか

実はロンドンオリンピックではそうしていたということを以前レポートしましたよね。
オリンピックは大丈夫なのか?6


メインスタジアムですが


上部のリング構造が脱着可能になっていました。

パーマネント席が2万5000席ですから、数字的にはまったく同じです。
今回の謎の民間企業は、このロンドンオリンピックのスタジアムを前例として検討しているようですね。
もしかしたら、設計図を借りてきて参考にしているかもしれませんね。
もしくは、このロンドン五輪スタジアムを設計したPOPULOUSに頼んじゃってるとか、、、
http://www.populous.com/>
POPULOUSというのはアメリカの設計事務所HOKのスポーツ施設部門が分離独立した会社です。
HOKとは、創立者(ヘルムース氏、オバタ氏、カッサバウム氏)の頭文字を合わせて命名されたアメリカの設計事務所です。

HOKのOはオバタのOなのですが、アメリカの建築設計事務所なのにオバタ?と思われたでしょう。
そのとおり、オバタとは小圃さん、日系人です。日本ではほとんど紹介されていませんが、ギョウ・オバタは、世界的大建築家なんです。


ギョウ・オバタの父親が、渡米した日本人画家小圃千浦(おばた ちうら)なんです。


幼小時からその才能を認められ、最年少で日本画の賞を受け、天才と謳われた将来を嘱望されながらも、日本の画壇の偏狭さに反発、英語も出来ないのに筆一本だけ携えて渡米したという、今でいえば、バット一本で全米を席捲したイチローみたいな人です。


日本画の技法を駆使してアメリカの大自然を描きました。


出身は、岡山県井原市、彫刻家の大家である平櫛田中と同じです。
日本に居た時には天才少年であった小圃千浦でしたが、徒手空拳でアメリカに渡った時点で、なんにもなくなりました。
画家で生計を立てようにもどうにもならず、ただ日々の糊口をしのぐだけで精いっぱい、社会の底辺で苦しんでいます。
そんな時代に息子さんのギョウ・オバタは生まれています。

アメリカの画壇で自分にしかできない表現をもとめていた小圃千浦は、あるとき友人と出かけたヨセミテの雄大な自然を目の前にして、「ヨセミテシリーズ」といわれる、日本画でもなくそれまでの西洋絵画にも見られなかったような作風に開眼します。


ちょうど、風景や花、骨などの、具象的モチーフを用いながらも抽象的表現に昇華させた、有名な画家ジョージア・オキーフにも通じるような作風です。


スケッチ中の小圃千浦


そのように、画家としての成功を掴んだところで、またもや小圃千浦に不幸が襲います。

小圃千浦だけじゃなく、世界の人々を不幸に陥れたのですが、、戦争です。
当時56歳になっていた小圃千浦でしたが、全米に居住していた日系人と同じように、財産も没収され敵性民族として収容所に入れられました。


そこで、意気消沈するどころか、小圃千浦は収容所内で美術学校を開き、子供達に絵を教え始めたのです。

「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。」
との信念のもと

戦争中に収容所で芸術なんて、、という反対意見もあったと聞きます。

「そして芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」

という収容所内の美術学校「タンフォラン美術学校」は、6歳から70歳まで、600人もの方々が受講していたといいます。

そして、この収容所内美術学校から育った芸術家も数多く輩出しています。

そのように、家族が厳しい状況下の中で、若きギョウ・オバタは建築の道を志していました。




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