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Channel: 建築エコノミスト 森山高至「土建国防論Blog」Powered by Ameba
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オリンピックをイーストトウキョウへ 3

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荒川沿いに交通網を整備したいよね、の続きです。
川はかつては運送のための高速道路だったというお話しでした。

だから、というか中沢新一先生のアースダイバー的にもそうですが、結果として都市におけるイイカンジの場所に川は流れている!ってことです。

平安京の造営時にもそうですが、地勢をみて四神を祭るように、新たな都市を生み出そうとしたときに、かつては川の位置を考えなければどうしようもなかったことがわかります。

まず、飲料水の確保がありますし、生活排水の処理もあります。
世界の四大文明、インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明も全部川沿いですものね。

それに加えて都市に絶対必要なネットワーク、輸送です。
コンパクトシティ論が盛んですが、どうもうまくいっていないのはモータリゼーションとの摺合せに失敗しているからではないでしょうか
現在の都市は道路によるトラック輸送が主流ですから、この川の機能が高速道路網に変化しているわけです。

この高速道路のICがちょうどリンパ節のように機能し、そこから一般道が指先や足先まで至る毛細血管のように整備されていることにより、初めて、年賀状が必ず元旦に届いたり、アマゾンで購入した書籍が翌日届いたりする、現代の生活が成り立っているわけです。


では、高速道路に寄り添って街区を形成すればいいじゃないか、、とならないのはですねえ。

高速道路の高架や路版のボリューム感、そのスケールが人が落ち着いて暮らすには、ちょっとキツすぎるからなんですよね。
インター脇に商業ゾーンや学校や団地の併設に成功している都市はまだまだないんじゃないでしょうか?
結局、イオンモールがドカンっと出来て、駐車場が広がる、人が歩くにはポッツーンと寂しさを感じるオーバースケールになっていると思います。


都会なら、例えば首都高に面した上層階ならまだ眼下の風景になりますが、、地上部の歩行空間は本当に暗い、インダストリアルなスケールにほとほとイヤになります。

▲現代の高速道路

そこがかつての輸送網である川や運河の風情との大きな違いです。

▲昔の高速道路



で、荒川づくりの話でした。

伊那備前守(いなびぜんのかみ)という人はどういった人かといいますと
徳川家康の家臣です。

家康の苦労話は有名ですよね。

三河の隣国の駿河と遠江で戦国随一ともいえる勢力を誇った今川氏に支配され、子供のときに今川に人質に出されました。が、その護送中に織田氏に誘拐され織田氏の人質になり、再度別件での人質交換で今川氏に出されるという、とんでもない子供時代を送っています。

このあたりを一番うまく描いているな、と私が思っているのは小島剛夕・小池一夫先生による「半蔵の門」という作品です。


忍者服部半蔵を主役に据えたマンガですが、半蔵ほどの腕前の忍びが将来になんの展望も見ることのできない状態の人質の少年竹千代(後の家康)に仕えていくお話しです。


一般に豊臣秀吉が苦労人扱いをされていますが、位は低かったといえ家族や友人の中で過ごした秀吉よりも、家康の、戦国時代の力関係とはいえ、モノのように行ったり来たりされた頃の精神的苦痛はいかばかりかと思います。


信長が桶狭間で当時の主君である今川義元を破った際に、初めて正真正銘自分の城と配下を持ちますが、そこからも一苦労あったんです。

自分の部下、特に優秀な連中が一向一揆に走ってしまったからです。

ここまでの経緯を振り返ると、家康はけっこうキツイ。お爺さんの清康は部下に殺されて、父親も命を狙われて、自分家も会社も人のモノになって相手の会社で下働きみたいな状況にずっと置かれていた。
その親会社が倒れた隙にベンチャー企業を興したと思った束の間、こんどは部下や腹心たちがみんな離反して、会社や工場を占拠したわけです。

こんときの一揆勢に伊那忠次の父親は属していたそうです。
結局家康は一揆を鎮圧しますが、伊那氏は出奔したまま12年間どこに居たかわかりませんでした。

鉄砲の威力を天下に知らしめた織田信長VS無敵の騎馬軍団を擁する武田勝頼の決戦で知られる「長篠の戦い」で、家康軍に陣借り(押し掛けボランティア活動、成果報酬型のインセンティブ営業マンみたいなものでしょうか)して功を立てたことで、帰参を許されました。

家康は一向一揆で敵方にまわった本多正信も後に帰参を許すだけでなく重臣にまで取り立てています。
一度退社したどころかライバル企業で活躍した人物を再雇用して役員に据えたわけですから、能力採用で有名なのは一般には織田信長ですが、徳川家康も相当な度量です。

そこから伊那備前守の活躍が始まるわけですが、家康が江戸に入り築城と同時に都市改造に取り組みます。

「利根川の東遷、荒川の西遷」と言われる大事業です。

昔の江戸には利根川がガツンっと思いっきり流入していたんです。
そして荒川もそこに流入していたというわけで、現在の埼玉県越谷市あたりで合流し、大雨が来るたびにガンガン暴れまくって洪水を起こし川筋も変えるといった状態で耕作地にもならず危険なエリアでもあったわけです。


これを、二つに分け引き離したことで江戸の町は発展するだけでなく、銚子から北関東にまで至る水運を活用できるようになったわけです。

これにより東北方面からの物資や狭山丘陵からの木材の搬入等も可能になり大いに江戸の発展に貢献することになったのです。

この土木事業は忠次から息子、孫と伊那家代々の取り組みにより60年かかって成し遂げられました。
そのため、河川改修技術、作堤技術などの土木技術において「備前流」と呼ばれる一流となりました。

このような土木事業は江戸だけのことではありません。

大阪湾における治水は豊臣秀吉以降綿々と続けられて今の大阪の街があります。


また、濃尾平野の治水では、薩摩藩が担当しましたが、木曾川、長良川、揖斐川の三大河川の分流に挑戦したものの、度重なる工事中の洪水等で資金難に陥り、さらには幕府の役人たちの嫌がらせにも合い。
最終的に薩摩藩士51名自害、病死も入れれば100人近い薩摩藩士が死亡、土木技術者の内藤十左衛門も自害。工事完成後に家老の平田
靱負が割腹自殺を遂げるという、後に「宝暦治水事件」という大事件まで起こっています。


そのような先人のおかげで今の土地がある。

日本の国土は豊かな自然を愛すると言われますが、峻嶮な山々に寒暖の差、急激な降水や台風、そして地震や火山の噴火といったように、現実には遠い過去から、自然の猛威、脅威にさらされ続けているわけです。

それらの危険な要因を辛抱強く取り除き、少しづつ低減させ続けてきた結果として、今の日本の国土と我々の生活の安定があるのです。

それをになってきたのが、俗にいう土建屋、土木建築事業です。
僕が土木工事は国防産業なんだ!と常々言い続けているのはそういうわけです。

土木のことを英語ではCivil Engineeringといいますが、これを直訳すれば、市民工学、公民工学とでもいえると思います。

一瞬に流れ去る大雨の水を貯めて活用するダム、川の氾濫を抑える土手、崖くずれ山崩れを抑える擁壁、波の浸食を抑える防波堤、土石流を抑える砂防ダム、流通経路を確保する高速道路や道や鉄道や波止場や駅。

これらは今日や明日、必要になったらすぐに準備していらなくなったらすぐに廃棄できるようなものではないのです。


だからこそ、建築や土木事業の計画には長期的視点が必要で、かつ短期的利益や瞬間の利権等々で企画実行してはいけないのです。


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