安藤忠雄研究1 「安藤忠雄」がもはや、ひとつのジャンルである。
安藤忠雄研究2 「安藤忠雄」は実は独学ではない。水谷頴介さんが師匠
安藤忠雄研究3 「安藤忠雄」の先行者たち。RC打ち放しの先達三人衆
安藤忠雄研究4 「安藤忠雄」のキャッチフレーズ、「都市、個人、光」とは
安藤忠雄研究5 「安藤忠雄」のミニマリズムのルーツ鈴木恂建築の凄さ
安藤忠雄研究の6です。
ということで、初期鈴木恂建築をもう少しみてみましょうか
KAH6606石亀邸という作品があります。
INAXレポートに解説もありますが、http://inaxreport.info/no187/feature2.html
活き活きとした世界中の子供たちの写真で有名な写真家の石亀秦郎さんのご自宅です。http://www.ishigame-office.com/index.html
ここでは、大きなボリュームを食い破る空間とはめ込まれたガラスのキューブといった非常に彫刻的な構成が見てとれますね。
鈴木恂はほぼ同時代にこのような空間とボリュームの実験的表現に取り組んでいましたが、今の現代建築というのは、この1960年代から1970年代にかけて、現代美術界に衝撃を与えたミニマルアートやプライマルストラクチャーから多分に影響を受けている、むしろもってきちゃってる人が多いのです。
たとえば、プライマルストラクチャーの代表的作家のひとり
ロナルド・ブレイデン(Ronald Bladen)1966年作品
おなじくプライマルストラクチャーの作家
ロバート・グローズブナー(Robert Grosvenor)の作品
こないだのザハ展の展示風景みたいでしょ?
私が何を言いたいかというと、ザハがパクッてるとか現代アートからアイデアを持ってきていると言いたいのではなく、建築ではタイムリーに同時代性をもった作品を生み出すのは非常に難しいということなんです。
極端な例をあげると、吟遊詩人とか歌、俳句はその場で思っていることを瞬間に表現できますよね。
次がインプロヴィゼーションのジャズとか楽器をつかった音楽表現でしょうか。
そこまで、オンタイムじゃなくても自己の責任で制作したりできる文芸や絵画、彫刻くらいまでなら時代の動きに追従可能なんですが、建築はね。
無理。
急いでも2年は他ジャンルの流行、時代の雰囲気から遅れる。
普通は計画依頼段階から完成まで大型案件なら4年くらい、しかも完成からメディア発表までさらに数カ月、1年ほど。
つまりは、5年くらいのギャップが発生するんですよ。
だから、建築表現は時代にアイデアとして5年先行するか、行き過ぎたアイデアは逆に評価は5年くらい遅れてくるもんなんです。
そういった意味では、真に新しいことや真に新しいモノを作ろうとする人はいないんです。
既に評価がある程度定まった表現形式から一歩も二歩も遅れて、場合によっては4歩くらい遅れてパクる、導入してる人の方が賢いという事実があります。
それを考えるとこの70年前後の鈴木恂テイストというのは他に突出して、むしろ周囲から浮いていたとさへいえるんですよね。
だから、鈴木恂の真価は見えにくかったはずなんですけど、そこで植田実と「都市住宅」なんです。
http://inaxreport.info/data/INAX170_15_37.pdf
この「都市住宅」という雑誌については以前から何度かご紹介していますが、「住宅から都市を考える、結果、人と社会を考えることになる」という意味では、今考えてみれば総合文化誌といっていいでしょう。
参考:建築専門雑誌がなぜ廃刊に追い込まれるか 3
ここで、鈴木恂は3回も特集記事が組まれています。
昭和46年、52年、59年のことです。
しかも、「都市住宅」誌は基本作家個人の作品集的な号は出さないんです。異例のことなんですよ。
その頃の建築家はですね、現代以上に、いわゆるソーシャルアーキテクトを標榜としている人がいっぱいいました。
社会における建築と建築家の意義を考える系の、目の前の社会問題を解決したい系の、市民運動の延長としての建築家像を模索する系の、資本主義文明と工業化社会の行き着く先を憂う系の若手建築家がごちゃまんと居た。
むしろ、そっちしかいないと言ってもいいくらい。
「賛成の反対の賛成なのだ!」とかいう建築家がいっぱいいたんですよ。
その中で、ニュース新聞で目に付くような社会現象とは距離をとって、世界中の民家や遺跡を見てあるきながらも、それらの異国趣味を直接取り入れるのでもなく。
特定の同時代の建築家にリスペクトするのでもなく、自己表現的住宅で芸術家ぶるのでもなく、自己の夢想する巨大建築のひな形を住宅で試すのでもなく、過去でも現在でも未来でもない建築。
人の知覚する空間を現存在として現前させるような建築、何かに律しられた生活=空間のかたち、ともいうべき普遍的な価値要素を、光と影に還元集約した建築の殻と生活の力が心即体と合一したような建築。
それを、もっとも明確に表現し、いかなるシーンでも世俗的意味を濾過して同質に構築するための素材として最適化した具体の素材としての、コンクリート打ち放し建築を標榜していました。
それくらい、当時の鈴木恂は独自の「MAKOTO WORLD」を築いていたわけです。
ですから、鈴木恂さんに住宅を依頼されたお施主さんはご自身も芸術家の方が多いです。
下記のSIH 7311 という住宅の写真ですが
大空間の端っこに取られた半円のトップライトから大きく太陽が入り込んでますよね。
単純に見える部屋が日時計というか、光のインスタレーションといってもいいのではないでしょうか。
このような表現というかコンセプトは単純に芸術としての建築とも、仕掛けられたギミックとも言い難い、陽の光だけによって何かの崇高さが生じているという不思議な住宅です。
芸術家のアトリエと聞いています。
何もない空間に太陽がある。
ここから住手がどのように住みこなすか、、がテーマ
とまあ、このような厳しいの優しいのかわからないツンデれな建築でもあります。