現国立競技場をチューンナップ、バージョンアップして、
ラグビーワールドカップ、オリンピックに向けて準備しようの続編です。
先日の外国人記者クラブでの記者会見でもリーダーとして、
そのご見識と沈着冷静なご判断で素敵な紳士っぷりを発揮された大野秀敏先生が、
なんと!現国立競技場を活かした代替案をご披露されました。
改修による新国立競技場計画案
説明書
その改修計画は真に大野先生らしいといいますか、既存の躯体を活かして収容人員と増やし屋根をかけるという単に機能増強にとどまらない、改修し付加する要素によって、現国立競技場の将来の利用維持管理のアイデアの可能性を広げ、周辺環境の関係をさらに深化させるきっかけを与えようというものです。
というのもですね、大野先生は建築家としても単に一個の建築を閉じた形態に押し込めたり、敷地をひとつの限定空間とみて、その中に恣意的なオブジェクトを置くようなデザインはしない人なんです。
大野先生のお仕事は通好みですから、今の若手建築家と称する人たちもその辺よく知らんと思うから解説します。
常に都市と建築のリアルな在り様を表現に据えている建築家です。
むしろ、小さな建築であっても都市的な要素、現代の生活空間を取り巻く周辺環境の意味とその繋がりを問うような作風です。
例えば、とある工業製品メーカーのオフィスビルであっても、
機能要素を分解して、再配置し、敷地内に小さなコリドールや広場を設けて、あらたな景観を生み出すようなお仕事をされています。
企業誘致が行われるような地方都市の工業団地は、大きな敷地と広い幹線道路のスケールによって殺風景になりがちなのですが、、
ここでも、ばっさり大枠の矩形でくくるのではなく、建築物の要素を可能な限りに分解。
建物の中に、通りぬけ通路や光の街路を導入。
無茶な開かない大型窓とかギリギリのディテールでキワドサを競うのではなく、開口の配置、素材や色彩を微妙に変化させ丁寧に設計デザインしてあることがわかりますよね。
これ、学校とか集合住宅じゃなく工場のオフィスですからね。
集合住宅になると、そのあたりの小さな都市的構成はもっと徹底していて、建物の中に街路を組み込んであります。
配置図を見れば大野先生の意図がよりはっきりと分かりますが、建物より、建物の影と樹木の方が詳しく描いてありますよ。
田園の中の集合住宅では、近未来的都市ではなく伝統的な都市空間の再解釈に挑んでいらっしゃいます。
通常左右が閉じてしまうバルコニー共用部を、文字通り、繋がりをもった縁側の前の路地通路に変えてあり、ゆるやかに段差が取られているのも写真では目立ちませんが、集合住宅においてはまったく新たな、しかしながら伝統的要素を秘めた建築表現です。
簾を降ろした入口と掃出し窓の関係は、これで全面に盆栽とか鉢植えをぎっしり並べてあれば、京都の町屋とか江戸情緒の残る下町の佃島みたいな感じも出ていますね。
さらには展望台のような、上に向かう塔の建築であっても、
人が歩いて楽しくなるようにしてある。
どうです?大野先生の建築は。
建築がただ単にピクチャレスクな自己中心的な鑑賞用のオブジェクトではないってことが、はっきりわかりますよね。
大野先生は1985年に雑誌「建築文化」に、「周縁に力がある」という論文を発表されて、そのあたりを喝破されております。
ロラン・バルトの引用から始まるあたりが、僕好みで非常にカッコイイので、ちょっとご紹介しておきますが、
周縁に力がある 1985
ロラン・バルトは『表徴の帝国』のなかで皇居に触れて、「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、<いかにもこの都市は中心を
もっている。だが、その中心は空虚である。>を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文
字どおり誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市全体がめぐっている。」と述べている。ブルバ-ルの先にはモニュメントが聳え、
明確な中心を綴り併せた都市から来た哲学者の目には、明確な中心をもちながらもそれが単なる深い森でしかなく、しかも、そこにはだれも入ることが出来ない
東京の中心部の構成がが極めて奇妙に映ったことであろう。
建築に於ける周縁空間
建物の周りが自然物で囲まれることによって初めて領域として完成するというふうに考えられていたとである。つまり我々にとって周りに自然を持たない屋敷はいわば「裸」の、不完全な屋敷なのである。
都市空間の周縁
一つの文化が持ち得る領域構造、あるいは空間構造のタイプの数は限られ、しかもスケ-ルを越えて繰り返される。ほんの小さな生活用具に現れる構造は、住居に現れ、そして我々は同じ目で都市を見、それをそのように編成する。
周縁のモニュメンタリティ-
建物のほうに永続性を期待できない日本の都市においては、むしろ自然を主体にした周縁の方に永遠性があったとしても自然なことなのである。そしてここか
ら、周縁自体が都市のなかにあってある種のモニュメントの代替機能をも果たすことにもなるのである。その例の第一番は富士山である。
<置く>、あるいは浮島
日本の都市あるいは建物は<置く>というオペレ-ショによって成立しているからではないか。日本の建築の主流をなしてきた高床系の建物は束によって持ち上
げられ、大地から切り離されている。大地の形状を変えることなく、その上にそっと水平の床を置くシステムである(崖造り)。だから置かれた建物の下には自
然がそのまま残る。つまり建物は自然の海のなかに浮かんでいるのである。
江戸の名所も当初は文人好みのものであったが、上野の花見などのような庶民的な名所も現れるようになった。亨保期にいたって名所は爆発的に数を増し、盛時 には一千とももいわれる勢いであったという。江戸の名所の代表的なものをあげると、愛宕山権現、神田大明神、日吉山王神社、増上寺、佃島住吉神社、といっ た寺社の境内や、西本願寺の参道、富岡八幡社の参道、浅草寺参道などの参道、日本橋、常磐橋、永代橋、両国橋西詰、筋違橋八ツ浩小路、新大橋東詰、あるい は溜池、日本堤、三派といった水辺、駒形塚、主水井、麻生一本松といった小さな場所も名所になった。江戸の特徴である坂も名所となった。九段坂、霊南坂、 神楽坂、愛宕薮下小路。色々な街角も名所であった。
繁華街=周縁
名所にはその場所独特の食べ物いわゆる名物と結びつき、見世物や淫売宿もあった。そこはアウトロ-の集まる場所であり、中心から排除された価値が集まる場所であった。名所は繁華街の原型であった。
旅人の都市
名所が名所として成立したのは、名所の場所の持っている空間的特徴や形態的特徴によってより、むしろその場所にまつわる「ゆかり性」あるいは「物語性」に よっているということである。勿論これまで述べてきたように名所は水辺や山の辺といった地形的特徴をもった場所を選んではいるものの、今日実際にその場所 を訪れてみると、意外にあっけらかんとして、とりたてた特徴がなくがっかりさせられることが多い。一般の都市の住人(即ちこの雑誌のおおかたの読者と違っ て建築家や都市計画家ではないという意味において)にとって、この「ゆかり性」や「物語性」こそ、場所と自分結びつける重要な媒介項なのである。実体的な イメ-ジだけで都市にかかわることなどとてもできない。
という、大野先生の現国立競技場の改修案がどのように優れているのか引き続き解説していきましょう。
つづく