ここまでの流れ
「アルミの家(1971)」---異形、未来デバイス、居住ユニット、反射、ゆらぎ
「中野本町の家(1976)」---都市と個・自然・人工の対峙、永遠時間、抽象空間
「PMTビル(1978)」---街並、ファサード、記号的操作、薄軽金属被覆、膨らみ
「小金井の家(1979)」---工業製品、レディ・メイド、チープインダストリアル
「笠間の家(1981)」---分節、分散配置、ランドスケープ、迷宮、家型
「シルバーハット(1984)」---天幕、小屋掛、工業化、トラス、パティオ、洛中洛外図
と並べてみました。
ここから80年代後半までは、当時の最先端のファッショナブルで都市的な様相の中での活躍が始まります。
レストランバー・ノマドや風の塔は時代の最先端をいく空間やランドマークとして位置づけられていましたね。
この時代のDNAは妹島和世さんに受け継がれました。
妹島和世さんの登場も衝撃的で、特にPLATFORMⅠ・Ⅱで見せた自由で軽やかな波形の屋根や、断片化した建築の部位を三次元空間の中で開放的に気ままに取り合わせていく手法は、建築でありながらジャズやダンスのインプロビゼーションのような即興性を感じさせる新鮮なものでした。
妹島さんも日本建築学会賞、プリツッカー賞をお取りになっており、建築家の師匠と弟子、いってみれば親子で世界的な建築家となっておられます。
さらには、伊東先生の元スタッフの方の元スタッフ、いわば孫世代に当たる建築家も輩出されており、伊東先生に育てられた建築家も人を育てる力があるという素晴らしい流れをつくられています。
1990年代に入ると、伊東先生は公共建築にも進出され、大型の案件でもその姿勢は変わらず、それ以前の手法は繰り返すことなく封印されている。
それでも決定的なデザインメソッドを毎回のごとく提出され続けています。
これらをも詳細に論じてもいきたいのですが、たぶん連載を50回以上続けなければならなくなりそうですので、今回はいったんここで止めときます。
2000年代には海外でのご活躍も増えて、年を経るごとにどんどん新しくなっていく感じです。
http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/index/index_j.html
伊東豊雄事務所のHPに訪問されれば、それらの全作品が時系列にご覧になれると思います。
ここまで見て来ましたように、伊東豊雄先生は絶対に立ち止まらない。
それまでの自分の評価された手法にも頓着なく、ぶっ壊していきます。
今ある評価にとどまることなどありません、
まだ見ぬ可能性にいつだって跳びだしていく。
そのような先生ですから、
今回の新国立競技場のコンペを巡る諸問題についても、
自己保身を求めるはずもなく、
何か大きな問題意識をもって臨まれているに違いないんです。
おわり。
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新国立競技場のもう1つの可能性。ケンチクボカン伊東豊雄⑤
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