私の文学師匠の天魚先生
小説家で俳人の眞鍋呉夫先生ですが、
今年の6月5日に鬼籍に入られました。
さる9月17日に市ヶ谷にて「眞鍋呉夫さんを偲ぶ会」が催されまして、
出席してきました。
先生を慕う大勢の方がお集まりになられ、
詩人の辻井喬さん、檀太郎さん、司修さん、等先生のお仲間の方が
みなさま心に沁みるご挨拶をなされて、亡き先生のお人柄をしのばせるものでした。
と、先生のお別れ会に出席してみても、
正直
未だに先生が亡くなったという実感が沸かないんです。
先生に私がお目にかかったのは20年ほど前ですが、
当時先生は70を過ぎておられ、私は20代の後半。
私は齋藤裕先生の元を勢いで飛び出して建築事務所を開いたばっかり、
特にこれといった仕事もなく、
かといって未だ建築に没入するべきテーマも見つからず、
自己が何ものかを求めて、映画や小説やアートといったような
自己表現の形式から何かをつかもうと、
何かを求めて彷徨しておったわけですが、
建築家の原口修さんと現代詩と現代美術の話題で盛り上がったおりに私が、
「・・反対の言葉をくっつければ簡単に詩になる。・・・たとえば黒い豆腐、柔らかい牙、暗闇の太陽、、等々」
と乱暴なことを抜かしておりましたら原口さんより
「そういうものでもないよ。もし詩とか俳句や短歌が好きなら天魚先生に会って
みないか。毎月連句会をやってるから、、」
「なんか、寺山修司みたいのですか?」
「違うけど、一度、会ってみますか?面白い先生だよ。」
と眞鍋先生の句会に呼んでいただいたというわけです。
先生はその初めて関口芭蕉庵にてお会いしたときから、
「僕の友人たちもだいぶ鬼籍にはいってきています。
僕自身も、もう先のことはわからんから、今日が最後と思って君に話す。」
と、そのギョロッとした大目玉に、いたずら好きな少年のような笑顔で、
大真剣モードで文学論、文化論、お酒の話しや九州のこと、
特に私の郷里の作家木山捷平と太宰治のこと、詩や俳句のこと、
全身全力で、何事もわかりやすくユーモアを込めてお話され
何か、頭蓋にドリルで穴を開けられ、直接脳髄に酒を、
上等のシャンペンを注ぎ込まれるかのごとくに、
蕩々と至言の湯水を浴びまして、
自分としては、鈴木恂先生、内藤廣先生、齋藤裕先生といった建築家の世界に加え、
このときに、第二の覚醒が始まったような思いがあります。
その後も毎月の連句会でお会いするたびに
「明日にも死ぬかもしれんから、今日が最後と思って君に話す。」
とおっしゃって、しかしながらそのお話というのは、先生が一方的に話し、
それを生徒が拝聴するというのでは決してなく、
「これこれ、という話しを聞いたんだけども、君はどう思う?」とか
「僕はこれからどうしたらいいかなあ」とか
「僕は、友人と思って君と話してるんだ!先生っていう顔で聞かないでください!」とか
「ふっほっ、それは面白いねえ。」とか
あくまで若い友人として遇していただいた至福の時間でした。
と、その後20年近くもお会いするたびに、都合数十回もの
「今日が最後」のお話をしてきたのですが、
数年ほど前のあるとき、鎌倉に行くからお供せよ、とのお達しがあり
新宿発の湘南新宿ラインのホームの先端で待ち合わせたのでした。
ホームへの階段を降りて約束の先端に向かって歩いていると、
船の舳先のように徐々に尖っていくホームの端っこには既に、
黒いマントに黒いソフト帽をかぶりステッキを突いた人影が、
何か世界の水先案内人のようにホームのずっと先をにらんでいる様子です。
「あっ、先生だ。早!」と私もずいぶん早めに出たつもりだったのですが、
先生はもう待ち合わせ場所であるホームの先端に到着しておられた。
「先生。」
すると、振り向いた先生は、何か僕の方に間違いでもあるかのように
「君、、早いねえ」
「いえ、先生こそ」
というわけで、晴れわたって白くまぶしい冬の空を見上げながら、
なにやらお話ししてたのですが、ふいに
「う~ん、君ともうちょっと早く出会いたかったねえ。矢山たちにも君を紹介してさ」
「先生、それって今から50年以上も前ですよ」
「そうか、僕もとうに80過ぎてるからなあ。40年くらい早く生まれてもらわんとね。」
「確かに、、それは楽しそうですね。」
「君と話すのも今日が最後になるかもしれんし、残念だよ。」
と、いつもの今日が最後の話しです。
僕は、今日こそは言ってやろうと、
「先生、いつもいつもそのお話ですけど、それ聞いてもう14~5年たちますよ。」
すると先生は、笑いながら
「ふほっ、そうか。もう、そんなにたつか、長いねえ。でもそれは一瞬だったねえ。
」
と真顔でおっしゃった。
「もはや、80過ぎてんだから明日には死んじゃうかもしれないんだよ。」
その自嘲するわけでもなく、透徹したような、
ちょっとさびしそうにした大きな目玉を見ているうちに、死ぬ死ぬ言う先生に、
何か無性に腹が立ってきて、俺も悲しくなるから死ぬ死ぬ言うな!っと、
すでに涙目だったと思いますが
「先生、まあ、いつ死んでもいいじゃないですか!また生まれて来れば!」
と言ってしまった。
「僕と先生は45~6歳違いだから、
僕が72歳になったときに生まれ変わった27歳の先生が、
俺の前に現れれば、今度は俺が先生やりますよ!」
と続けてしまった。たぶん僕は、ほぼ半泣いちゃってたと思いますが。
一瞬、ちょっぴり悲しそうな目をキョトンとした先生でしたが、
「ほほっーっ、それは面白いな。その手があるか!」
「それは、いいな。君が僕に教えてくれるの?俳句や文学を。」
「そうですよ。」
「じゃあ、じゃあ、そのときのためにも、君を仕込みまくらんといかんな、今の僕が。」
「そうですよ、お願いしますよ。」
と笑いあったんですね。
だから、天魚先生はリアルでは死んじゃったかもしれないんですけど、
私の中では、どこかで生きてる、ていうかもう既に生まれている。
そして、どこかで、僕と28年後に出会う。
そのときをすごく楽しみにしているんですよ。
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さびしさに 煙吐き出す 鬼ふすべ (天魚)
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