新国立競技場問題でもご活躍された、弁護士の日置 雅晴先生が代表をされている
「景観と住環境を考える全国ネットワーク 」http://machi-kaeru.com/index.htmlの景住ネットNEWSにコラム寄稿しました。
「都心一極集中は自然現象ではない。」
都心一極集中は自然現象ではない。
東京一極集中といわれて久しい、また、東京一極集中の弊害、一極集中抑制という国家的課題、経済社会を通じての目標がずっと日本の国土には染みついているかのごとくである。
この話題は、約半世紀以上にわたり、矮小な国土と峻嶮な地形ゆえの移動の制約や、南北地域における豪雪や台風が飛来する気候の違い、活火山が多く地震等の自然災害も多いこと、平地が少ない中での農業生産性の確保および流通上の課題を含んで、日本の自然条件を大前提とした社会制度上の大きな問題点とされてきた。
つまり都のみが発展し、鄙は置き去りにされていくと。
高度経済成長期の間只中の昭和40年代生まれの私達の世代でも、物心ついたときには田中角栄の列島改造論を嚆矢として、「唯一の大都会としての東京への集中」の問題は耳にしていた。
あらゆる文物や社会の変革は東京を中心におこなわれており、情報は常に東京から下げ渡ってくるものであり、すくなくともマスコミを始めとするマスコミュニケーション、キー局制をとるテレビにおいてはその中心が東京であることは偽らざる事実であった。
一方、その東京とやらはいったいどこに存在しているのか、地方都市における田園風景、海岸風景、森林風景のどこからどう繋がって、あの高層ビルが林立する大都会に繋がっていくのか、まったく現実感がなかったのも事実である。日本全国に知らされわたる情報上の「東京」には常に現実感がなく、どこか遠い、電波によって運ばれてくる半ば異国の首都、異国のメトロポリスであったといってもいいだろう。
当時の地方都市少年として実際に近隣に目を回してみても、東京に行ったことがある人物は非常にまれであり、東京から来たという人物も非常にまれであり、大人は地元の企業に勤め、年長のお兄さんお姉さんも地元の県内に通学、就職、通勤していた。東京は選挙ごとに地元に戻ると称する不在地元民である国会議員や、地方企業の社員旅行の中継地として経由した際のお土産モノ等として象徴的に存在するものにすぎなかったものである。
長距離輸送機関が今ほど発達しておらず、全国一律の飲食チェーンやコンビニエンスストアがなかった、いってみば地方では具体的姿としての東京にリアリティがなかった高度成長期、にもかかわらず、実は、その当時がもっとも東京への人口流入が多かったという統計的事実がある。当時、年間30~40万人が東京に移住していったといわれている。
その内訳は、若い労働力を求めた集団就職や出稼ぎと呼ばれた開発が進む首都圏周辺での工事人夫、それに伴い増大する派生的中小規模経済、飲食業等の増殖が過半を占め、その他は進学者であったという。当時は日本全体で人口が増えているという状況の中で、東京へのさらなる人口増という意味で、あふれた人材がそのまま東京に流入していたというわけだ。
その当時と比較してみると東京への流入人口は現在ではピーク時の半分以下と言われている。東京への移住人口は減っているのである。 にもかかわらず未だに東京一極集中と言われているのは、人口が増大しているエリアが首都圏にしかみられない事情からである。つまり、日本全体でみれば、人口減少が始まっているなか、東京にのみ流入しているという点が高度成長期と大きくことなる点である。
これはいったいなぜなのか?地方産業や企業の衰退等々。さまざまな理由があげられるが、そもそも、東京への人口流入はいつから始まったものであろうか、歴史的統計をひもといてみれば、この東京のみへの人口流入は比較的最近のものであることがわかる。
そもそもの発端は徳川政権による江戸幕府の開闢であるが、その当時は京都も大阪も東京同等以上の都市として顕在であり、明治維新による京都から東京への遷都をもってしても、あくまで経済の中心、いわゆる人口の集中において、大阪府下および関西経済圏の優位は変わらなかった。同時に、東海道に鉄道が引かれるまで、東京と大阪の移動には、最速の蒸気船をもってしても数日を要していたわけだから、少なくとも当日移動範囲の中で経済圏も人口移動も閉じていたといってもいいだろう。
大きく首都圏と他の地域の人口動向状況の開きが生じたのは太平洋戦争中といわれており、その理由も経済的な帰結とか漸進的な社会的変遷といった自然的変化、自律運動ではなく、戦時体制の統合による強制的なものであることが現在の歴史的な分析であきらかになっている。
つまり、東京に一極集中したのは官僚の緊急避難的措置であり、いわば異様な戦時体制により生じたものでありながら、それが現在にまで影響を及ぼしているということだ。
戦後70年以上を経て未だに?と疑問を呈される諸兄もいらっしゃるだろうが、意外なことにこの戦時体制は実はその後も非常に長く様々な面で戦後数十年間維持されてきているのである。
この国家総動員法を中心とした大戦中の統制経済が、日本の産業構造に与えた影響は大きく、身近なところでいくつかの食品流通、特に塩やたばこの専売、酒の製造等級、米の栽培体制までが、厳しく統制されていたのは記憶に新しいところである。それぞれの製造方法にまで細かく規制を加え、品質や価格における競争をさせない仕組みとして機能していた。
その後、これらの規制を外したことによる市場の活況としてわかりやすいのは、現在の地酒酒造ブームを思い起こしてみればいい。いかにこの戦時中の統制経済の名残が、それまでの伝統的地域社会文化をゆがませ矯めてきたのか。それは火を見るよりも明らかだろう。
東京一極集中においても、この戦時中の統制経済の名残なのである。そしてその原因をいつの間にか忘れ、一極集中が経済上避けられないもの、自然な変動と誤解されたままなのである。当時の経済統制の具体的施策としては、同一産業内での企業の統合、および各企業に課せられた本社の東京への統合、がもっとも大きな影響を与えたといわれている。
本土に空襲まで受けようかという戦時中の非常事態を考えれば、国家としても企業体としてもリスクをヘッジするためには、首都機能の分散が適当と考えられるが、そうではなく、真逆の統合がおこなわれたわけだ。
東京一極集中は一種異様な国家的状況の中で、緊急的政策として政府と軍とその官僚により意図的に行われたものであって、市場経済による自然淘汰であるとか、避けられなかった自然現象的事態ではないのである。 この歴史的事実から振り返ってみるならば、一極集中は人為的なものであり、ならば、一極集中は止められる、と考えるべきものである。
つまり、現在起きている東京一極集中の中での、さらに都心への一極集中という現象も同様に自然発生的なものとみて、迂闊に諦念し受容してはならないものである。
現在、一極集中東京の中での一極集中エリアは、都心の中心三区といっていいだろう。そこは戦前戦後を通じていってみれば良好な都市景観や歴史的遺構も保持する江戸時代から続く町々のエリアであり、千代田区、中央区、港区に集中している これらの地域では特に中央区が先行して、人口減少から増に転じる、ことを旗印に住宅系建築物の容積率の緩和や最高高さ制限の事実上の撤廃といった政策のもと、タワーマンションが雨後の筍のごとく林立するありさまとなった。
たしかに、若年人口の大幅増大という目標は達成されたもの、急激な人口増にともなう公共諸施設整備が追い付いておらず、特に子育て支援施設の大幅な不足と通勤通学時の輸送施設の大幅な不足と、駅やバス停における歩行者渋滞といった状況も起こしている。
そして、これらの公共施設整備にはさらに十数年を必要としながら、それ異常のスピードで、さらにタワーマンションの建設が続くことが確定している。これらの高層住宅はデベロッパーの立場からすれば、一拠点における販売戸数の増大が見込めることから、あくまで戸数を大量に販売するという民間の企業の利益極大化行動としては、歓迎されるものではあろう。
しかしながら、一棟あたり数百戸から千戸といったような、戸数オーダーはこれをただの民間建物の事業と呼ぶにはあまりに多く、地方の町村の定住戸数をはるかに上回るものである。町村であるなら本来、役場もあり郵便局も学校も幼稚園、保育園、病院、消防署といったような、公共施設を含んだ行政単位をもったコミュニティを形成するべき人口を擁した一棟建ての建物が十数棟、次々と数年間で出現し、そこに人々が移住しているのが、現在の都心の状況である。
このような事態を放置するどころか助長しているのが、現在の中央区をはじめとする東京一極集中の中における集中をみせる都心三区と臨海部である。 その状況に加え、東京五輪決定以降は、五輪施設整備や選手村整備を前提とした、さらなる整備計画が進行中である。 そこには、自然発生した経済的事由ではなく、デベロッパーと行政が一体となった人為的な集中誘導の結果であり、そのことによるさまざまな軋轢が起こりはじめている。そして今、これらのエリアは正常な都市生活的利便性の臨界点を超えようとしていると指摘してきたい。結果として今後十数年のうちに、これら一棟々が正常なコミュニティに育っていくことができるのか、今がその曲がり角であることは間違いない。