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築地市場の豊洲移転が不可能な理由⑪

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築地の豊洲移転に様々な問題が起こっているの続きです。
これまでいろいろと見てきましたが、

私も含めて多くの方が思うのが、なんで?こうなった?です。
なんでこうなったんだろう?

その大きな理由のひとつが、

どうやら、東京都が考えていることというのは、

「築地(でやっているコトや人)が→豊洲という新しい場所に移るんじゃねえよ!築地は捨てていくよ!」

ということのようなんです。

そして、東京都の態度は

「築地(そこでやってるコトや人)を辞めさせて、豊洲に別の仕組みの市場を作り、築地に居る人で移りたい人だけ移ればいいじゃん、むしろ築地の人は来なくてもいいじゃん、豊洲には新たな流通チェーンを設けるからよ!」

ということのようなんです。

つまり、現状を見る限り、「築地の豊洲移転」という言葉に皆、まやかされていて、
実際は「築地を消滅させ、豊洲で何をしようか?」という計画に結果としてなっているみたいなんですね。

このままいくと、「築地消滅」なんです。

なぜ消滅してしまうのか、その前に築地がなぜ特別なのか?について大まかに理解しておく必要があります。


築地というのは東京卸売市場が存在する場所の地名です。
しかし、元は一般名詞で土木・建築用語の築地(ついじ)です。

築地塀(ついじべい)という塀があるのですが、板の間に土を入れて突き固めて硬く締めて作った壁の上に瓦を葺いた塀のこといいます。

たとえば京都の御所を取り巻く壁が築地塀です。


このように作りました。


この土を突き固めて作るから転じて、そうして作られた土地、いわゆる埋め立て地なんかも、「築地」と呼ばれるようになったんです。
そうして新しく出来た町を「新地」と呼んで地名になっていたりもします。

で、東京湾の埋め立て地であった築地ですが、いつ埋め立て工事をしたのかといいますと、江戸時代です。

江戸時代も初期の頃、1657年の第四代将軍家綱の時代にとてつもない大火事があったんです。明暦の大火、別名振り袖火事とも呼ばれますが、徳川家康から第三代家光までに整備された当時の江戸の町のほとんどが灰燼に帰したといわれています。


ほぼ城下全域に及んでいます。
数万人の方が亡くなっています。


江戸城天守閣もこの火事により焼失したのです。

この火事以降、江戸幕府は防災都市計画に取り組みました。

結果、橋の架け替えや屋敷の移転、防災道路として広小路の設置。土蔵や瓦等を用いた燃えにくい耐火構造の建築を奨励、市街地や道路の区画整理を全域でおこなったのです。

そのときに、現在の浜町にあった西本願寺の別院が、幕府より復興区画整理のため移転を命じられました。


が、幕府も無茶を言ったと思いますが、移転先はその時点で未だ海の中を代替え地として与えました。

そこで自らそこを埋め立てして土地を築いたので、築地の御坊、築地御坊となったのです。


それが、現在に続く「築地」のはじまりです。


なので、築地イコール魚河岸ではなく、築地は埋め立て地、本願寺の門徒、しかも佃島の門徒衆が中心となって新たに築いた土地なのです。

佃島というのは、江戸期を通じ日本の漁業において非常に重要で面白い存在なのですが、後述します。

では、その頃の魚河岸はどこにあったかといいますと、、、
日本橋にありました。

落語の「百川(ももかわ)」等に出てくる河岸というのは日本橋のことなのです。


江戸から明治になっても、まだ日本橋にありました。


かつては、荷物は海上輸送がメインですから、運河が高速道路みたいなもので、これらの船が現在でいうトラックに相当します。


その後、関東大震災を契機として、河岸が日本橋から築地に移るのですが、
これまで300年以上も続く魚河岸の諸制度や言葉を今に引き継いできたのが、築地です。


卸(おろし)、仲卸(なかおろし)という制度がどのようになっているのかを理解しないと、築地の空間構成と豊洲のデタラメ空間の齟齬は理解できないのです。

しばしハコモノの話題から離れて、この魚河岸の仕組みを見ていきましょう。



で、これまで築地でやってるコトと人は現在どうなっているか、


また、続きを書きますね。


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