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外苑新国立計画は凍結し駒沢競技場の活用へ4

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駒沢オリンピック競技場の歴史をひもといてみようの続きです。

そもそも、この駒沢という地名は明治22年に出来たという比較的新しいものです。

現在の上馬、下馬という地名は元々、上馬引沢、下馬引沢が縮まったものだそうです。
源頼朝が奥州征伐に向かう折にこの付近で崖崩れに遭ったとか、馬を繋いだとか言われる由縁のあるところです。
その由来を持つ駒繋神社という社もあり、その脇を流れる川を蛇崩川といいました。


そのように近隣地名にあった「馬」と、野沢、深沢というこれまた近隣の地名「沢」を合わせて、「馬沢」ではなく、馬=駒と語呂を変えて「駒沢」となったそうです。


当時の地図を見る限り、主だった道は大山街道しかなく、農道のような道が曲がりくねっており、
明治、大正期までは山林および畑ですね。

この大山街道というのが現在の246です。
なぜ、大山街道なのか?といいますと、現代の都内在住者の人たちではまったく馴染みがないと思いますが、大山とは神奈川県の伊勢原市にある山です。


江戸時代まで、この大山(おおやま)は、別名阿夫利山(あふりやま)とも雨降山とも呼ばれ、雨乞いの神様として超有名だったのです。
万葉集にも吾妻鏡にも出て来るくらいの人気の山です。

そこへの参拝に行く大山講も組織され、関東中から大山詣が盛んだったんですね。


落語ファンならよくご存知の方もいらっしゃるでしょう。


その大山に向かう各地からの街道が大山道(おおやまみち)として整備されましたが、そのうち江戸からのメインのルート、青山ルートが現在の246になりました。


その大山道沿いに明治40年玉川電車が開通し、「こまざは駅」が出来ています。


ここに大正2年曹洞宗大学(後の駒沢大学)が移転してきます。

同時期に東京ゴルフ倶楽部も設立されています。


玉川電車の効果でしょうか、市街地が広がり始めていますね。
でも、まだまだ山林や田んぼ畑だらけ、「となりのトトロ」のような風景だったようです。

このゴルフ場を1940年の幻の東京オリンピックのメイン会場にしようとしたのは前述したとおりです。
返上後は戦局の悪化で、食料増産のための農地に逆戻りしていました。

そして、戦後に駒沢はプロ野球チームのホームになります。

東映フライヤーズ、現在の日本ハムファイターズです。

元々は東急フライヤーズと言って東急グループが、戦後復活した東京セネターズを引き継いだ球団です。


球場の入り口です。


昭和30年頃では敷地の真ん中に球場が存在しています。

この東映フライヤーズは、無頼派球団として大層人気を誇ったようですね。
東京をフランチャイズとする老舗球団でもありました。


フライヤーズの駒沢野球場は駒沢がオリンピック会場に指定されたことを受けて、1962年に取り壊され、その後フランチャイズが決まらず、神宮球場から後楽園球場に移り、1973年には日拓ホームという不動産会社が1年だけ保有した後に、日本ハムファイターズになりました。

その後は30年間、後楽園球場をジャイアンツと共にホームとして来ましたが、2004年から札幌ドームに移転し、北海道の球団となりました。

駒沢もスポーツと縁の深い土地柄ですね。

で、1964オリンピック会場計画が始まったわけです。
この建築について、戦前から関わっていた岸田日出刀、そして建築家の芦原義信さんをご紹介したわけですけど、実は芦原さんだけではないのです。

駒沢の計画の青写真には戦後の日本の都市計画の巨人とも言われる方が関わってたのです。

その人の名は、高山英華。

なんか、日本画の先生とか、俳号みたいな典雅なお名前ですよね。
華岡清州とか高野長英とかが思い浮かんでしまって、江戸時代の人みたいな印象をもっていました。



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