東京オリンピックを東地区に寄せることで何が出来そうかの続きです。
非常に興味深い計画が2000年に当時の運輸大臣の諮問機関「運輸政策審議会」にて答申されています。
それは「エイトライナー・メトロセブン構想」です。
環状8号線道路、環状7号線道路の下に地下鉄を通そうというものです。
この計画、10年以上前に出されたものの宙に浮いていると思われてるらしいのですが、違います。昨年も検討調査発表をおこなっています。
そして、来年度平成27年に第二回の答申を控えている計画なのです。
都市建設1 エイトライナー促進協議会の実施結果について
www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/064/.../attach_64453_10.pdf
検討資料にありますように、いまのところ全区間の総費用は1兆円を超える見込みになっています。
が、スマートリニアメトロ方式の採用により1割くらいの費用縮減も検討されているようですね。
http://www.jametro.or.jp/linear/
これをですね、先行部分開通させてみてはどうかと思うのです。
東西の両翼部分「亀有~葛西臨界公園」15キロと「荻窪~武蔵小杉」キロの部分です。
全体で60キロメートル1兆円なら、とりあえず半分の5000億円ですよね。
しかも、これは新国立競技場計画のようなフル税金ではないんです。
確実に利用者がいますからね。
が、スマートリニアメトロ方式の採用により1割くらいの費用縮減も検討されているようですね。
http://www.jametro.or.jp/linear/
これをですね、先行部分開通させてみてはどうかと思うのです。
東西の両翼部分「亀有~葛西臨界公園」15キロと「荻窪~武蔵小杉」キロの部分です。
全体で60キロメートル1兆円なら、とりあえず半分の5000億円ですよね。
しかも、これは新国立競技場計画のようなフル税金ではないんです。
確実に利用者がいますからね。
蜘蛛の巣の横糸が少し増えました。
が、まだ東側はスカスカです。
同時に、エイトライナーはかなり外走っていますね。
これを見ても、
実は東京の都市開発は西に寄り過ぎていることがわかります。
とりあえず、これくらいにしはしたい、というのが下図です。
西側は将来メトロセブンが分岐して伸びていくことで地下鉄化できそうですが、東側の赤いラインこれは荒川沿いなんです。
川かあ、、川じゃなあ、、と思われるでしょう?
ところがですね、もしかしたら川で良かったのかもしれないんです。
そこでもイーストロンドンオリンピックが参考になるのですが、、
ロンドンはですね、都市の中にロープウェイを走らせたんです。
これを荒川沿いに走らせましょう。
これが荒川なんですけど
隅田川とは違ったひとまわり大きなスケール感ですよね。
これがイーストロンドンに出来たロープウェイ「エミレーツエアライン」です。今ではすっかり観光名所らしいですね。
が、まだ東側はスカスカです。
同時に、エイトライナーはかなり外走っていますね。
これを見ても、
実は東京の都市開発は西に寄り過ぎていることがわかります。
とりあえず、これくらいにしはしたい、というのが下図です。
西側は将来メトロセブンが分岐して伸びていくことで地下鉄化できそうですが、東側の赤いラインこれは荒川沿いなんです。
川かあ、、川じゃなあ、、と思われるでしょう?
ところがですね、もしかしたら川で良かったのかもしれないんです。
そこでもイーストロンドンオリンピックが参考になるのですが、、
ロンドンはですね、都市の中にロープウェイを走らせたんです。
これを荒川沿いに走らせましょう。
これが荒川なんですけど
隅田川とは違ったひとまわり大きなスケール感ですよね。
これがイーストロンドンに出来たロープウェイ「エミレーツエアライン」です。今ではすっかり観光名所らしいですね。
なんかシチュエーションが近いんだけど、、セイムシチュエーションなんですけど、、、
ロープウェイは通常の交通網ではちょっと使いずらいという声もあるかもしれません。
モノレールの方がいいかなあ
で、ですね公共交通網のコスト比較の資料を見つけました。
(国土交通省)
wwwtb.mlit.go.jp/chubu/kikaku/chikousin/toshin2/toshin2_shiryo5.pdf
ひきつづき、荒川河川沿いにどんな交通網を整備するべきか検討していきましょう。
で、荒川についてなんですけど、
実は!荒川は自然の川ではない!って聞いたら、
えええー!っとにわかには信じられないですよね。
土木好き、土木応援団を自称する私でも「荒川が人工の河川」ってしったときは、うなりました。
すげえと、信じらんねえと。
というのもですね、それって運河でしょう?
運河っていえば、そりゃもう大変な工事なんですよ。
中国の歴史でも神になった禹王(うおう)は黄河の治水に成功した伝説の人です。圧倒的な科学力をもちながら非攻を貫き城を守ったといわれる墨家も、この人々を救う難事業に挑んだ禹王を大禹と呼び尊崇していたといいます。
ただ掘ればいいってもんじゃないですからね、掘っって水を流すんですから、しかも上流から下流まで綺麗に流すっていうのは至難の業でしょう。
近現代でも運河は大変なんです。
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part1
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part2
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part3
しかも、この荒川づくり、江戸時代と明治時代にわたってやってます。
荒川沿いに交通網を整備することの意義を問う意味でも、先人たちの自然との闘い、技と汗と苦労の歴史、荒川をコントロールしようと挑戦した江戸の土建屋の心意気を汲み取るためにも
ちょっと荒川の歴史をひもといてみましょう。
その前に、現代の私たちから見る川と明治以前の川の役割はずいぶん違うということを理解しておかなくてはなりません。
昔は、川は今で言う道路、それも高速道路みたいなものなのです。
なぜかというと、鉄道やトラック輸送が整備されるまでは物資の輸送は船に頼っていたからです。
江戸の街が出来上がったころも、各町の主要な船着場と運河、水路を整備しています。
そうでないと、材木とか食料とかの重量物や大きな物資を運び込むことができないからなんですね。
上の図の青いところが水路です。
で、当時の最大の輸送船が千石船です。
千石というのは重さとか体積の単位ですね。「せんごく」と読みます。
一石(いっこく)と言われても具体的には、イメージしずらいと思いますが、よく大名の所領を何万石といいますが、それは1年間の米の生産量をあらわしています。
現代の私たちでも一升瓶なら大体分量がイメージできますよね。
一升瓶の10本分が一斗(いっと)とおいいます。
灯油や塗料の一斗缶くらいまでなら見たこともある人も多いでしょう。
この一斗缶を10缶で一石です。
つまり、100升が一石なんです。
それが1000積めるというのが千石船です。
米一石の重さが40貫と言われており(1貫は3.75キログラム前後)
150キログラムですから、千石船は15万キログラム150トンの積載量ということになります。大型トラック(20トンクラス)8台分くらいのものを運んでいたことになります。
正確には船の積載量を見る場合にはその後二転三転していますから、多少異なっていますが、イメージとしては百石船がちょうど今の佐川急便とかクロネコヤマトのトラックみたいなものでしょう。
ですから、当時の船着場は今で言う空港とか流通センターとかみたいな感じで大いににぎわっていたわけです。
昨年から南房総によく行っているのですが、今でこそ陸の孤島のようなどんずまり感のある房総半島なんですが、各港々、町々にビックリするほど立派な神社や古刹、大きな民家があったりして非常に感慨深いのです。
江戸期は房総半島、特に内房は海産物や農産物はじめ醤油や味噌といった加工食品等々の江戸への一大流通集散地だったわけです。同時に陸路をいくより江戸湾を横切る方がずいぶん早く着くわけですから、そういった意味では田舎ではなかったんですね。
というわけで、荒川づくりは交通網の整備の一環でもあったわけです。
で、なぜそんなに難事業に取り組んでまで人工河川をつくったかといいますと、荒川の名のとおり、荒っぽい川、洪水や氾濫を引き起こす荒ぶる川、竜の棲家だったわけです。
その洪水対策で川の流れを変えてやろう、という壮大な計画です。
洪水を防ぐことで田畑を増やし人が住めるようにする。
上の地図で備前堤(びぜんつつみ)と書かれた赤い部分が堤防です。
なぜ、「備前」なのか
それは、この計画を取り仕切ったのが備前守・伊那忠次だったからです。
この伊那備前守という人はちょっとどころかすげえカッコイイ人なんです。まあ、真の建築家とはどういう人か、というお手本です。
以前、ご紹介した竹中藤兵衛は織田信長配下の武士でしたが
戦国ゼネコン 竹中藤兵衛 巻の1
この伊那忠次は徳川(松平)家康の配下、
正確にはその息子松平信康の臣下でした。
松平信康については戦国ゆえのエピソードとはいえ、家康にとっても非常にかわいそうな事件があったのです。
伊那忠次については3に続く
で、荒川についてなんですけど、
実は!荒川は自然の川ではない!って聞いたら、
えええー!っとにわかには信じられないですよね。
土木好き、土木応援団を自称する私でも「荒川が人工の河川」ってしったときは、うなりました。
すげえと、信じらんねえと。
というのもですね、それって運河でしょう?
運河っていえば、そりゃもう大変な工事なんですよ。
中国の歴史でも神になった禹王(うおう)は黄河の治水に成功した伝説の人です。圧倒的な科学力をもちながら非攻を貫き城を守ったといわれる墨家も、この人々を救う難事業に挑んだ禹王を大禹と呼び尊崇していたといいます。
ただ掘ればいいってもんじゃないですからね、掘っって水を流すんですから、しかも上流から下流まで綺麗に流すっていうのは至難の業でしょう。
近現代でも運河は大変なんです。
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part1
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part2
スエズ運河を拡張せよ 五洋建設の挑戦part3
しかも、この荒川づくり、江戸時代と明治時代にわたってやってます。
荒川沿いに交通網を整備することの意義を問う意味でも、先人たちの自然との闘い、技と汗と苦労の歴史、荒川をコントロールしようと挑戦した江戸の土建屋の心意気を汲み取るためにも
ちょっと荒川の歴史をひもといてみましょう。
その前に、現代の私たちから見る川と明治以前の川の役割はずいぶん違うということを理解しておかなくてはなりません。
昔は、川は今で言う道路、それも高速道路みたいなものなのです。
なぜかというと、鉄道やトラック輸送が整備されるまでは物資の輸送は船に頼っていたからです。
江戸の街が出来上がったころも、各町の主要な船着場と運河、水路を整備しています。
そうでないと、材木とか食料とかの重量物や大きな物資を運び込むことができないからなんですね。
上の図の青いところが水路です。
で、当時の最大の輸送船が千石船です。
千石というのは重さとか体積の単位ですね。「せんごく」と読みます。
一石(いっこく)と言われても具体的には、イメージしずらいと思いますが、よく大名の所領を何万石といいますが、それは1年間の米の生産量をあらわしています。
現代の私たちでも一升瓶なら大体分量がイメージできますよね。
一升瓶の10本分が一斗(いっと)とおいいます。
灯油や塗料の一斗缶くらいまでなら見たこともある人も多いでしょう。
この一斗缶を10缶で一石です。
つまり、100升が一石なんです。
それが1000積めるというのが千石船です。
米一石の重さが40貫と言われており(1貫は3.75キログラム前後)
150キログラムですから、千石船は15万キログラム150トンの積載量ということになります。大型トラック(20トンクラス)8台分くらいのものを運んでいたことになります。
正確には船の積載量を見る場合にはその後二転三転していますから、多少異なっていますが、イメージとしては百石船がちょうど今の佐川急便とかクロネコヤマトのトラックみたいなものでしょう。
ですから、当時の船着場は今で言う空港とか流通センターとかみたいな感じで大いににぎわっていたわけです。
昨年から南房総によく行っているのですが、今でこそ陸の孤島のようなどんずまり感のある房総半島なんですが、各港々、町々にビックリするほど立派な神社や古刹、大きな民家があったりして非常に感慨深いのです。
江戸期は房総半島、特に内房は海産物や農産物はじめ醤油や味噌といった加工食品等々の江戸への一大流通集散地だったわけです。同時に陸路をいくより江戸湾を横切る方がずいぶん早く着くわけですから、そういった意味では田舎ではなかったんですね。
というわけで、荒川づくりは交通網の整備の一環でもあったわけです。
で、なぜそんなに難事業に取り組んでまで人工河川をつくったかといいますと、荒川の名のとおり、荒っぽい川、洪水や氾濫を引き起こす荒ぶる川、竜の棲家だったわけです。
その洪水対策で川の流れを変えてやろう、という壮大な計画です。
洪水を防ぐことで田畑を増やし人が住めるようにする。
上の地図で備前堤(びぜんつつみ)と書かれた赤い部分が堤防です。
なぜ、「備前」なのか
それは、この計画を取り仕切ったのが備前守・伊那忠次だったからです。
この伊那備前守という人はちょっとどころかすげえカッコイイ人なんです。まあ、真の建築家とはどういう人か、というお手本です。
以前、ご紹介した竹中藤兵衛は織田信長配下の武士でしたが
戦国ゼネコン 竹中藤兵衛 巻の1
この伊那忠次は徳川(松平)家康の配下、
正確にはその息子松平信康の臣下でした。
松平信康については戦国ゆえのエピソードとはいえ、家康にとっても非常にかわいそうな事件があったのです。
伊那忠次については3に続く